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【忍殺】メフィスト賞から読むニンジャスレイヤー

 『ニンジャスレイヤー(略称:忍殺、ニンスレ)』という連作短編web小説があります。「アイエエ!」や「ニンジャナンデ!」などの独特の文章表現を、一度くらいは耳にしたことがあるでしょう。それの元ネタとなった小説です。長年のファンとしてはこういったネットミームの広まりは嬉しいもの……とはいえ、本編の内容は案外知られてないような気がします。twitter上で未だに小説連載は続いていますし、数年前からこのnoteにおいてもサブエピソードの連載や資料集の公開が行われています。少なくとも週に三度は何かしらの供給が行われているコンテンツであり、ヘッズ(忍殺ファンの公式総称)の間ではまだまだHOTな作品です。

 上が公式による、作品ガイド。私の方でざっくり作品のカラーを列挙しますと、「サイバーパンク」「アクション」「トンチキ日本」「TRPG」「指輪物語」「パルプ小説」「映画」「アメコミ」「復讐」「ヒーローもの」……などになるでしょうか。

 さて、私は忍殺の大ファンではありますが、実はこういった基底カラーには全く明るくありません。TRPGは一度もやったことがなく、指輪物語は正直好きではありません。特撮ヒーローやアメコミに触れたことはほぼなく、映像媒体の作品よりも小説が好きです。しかもその小説においてすら、SFはそれほど読んでおらず、サイバーパンクに至っては皆無と言っていいでしょう。では、私がどういった経緯で、この畑違いもいいところの忍殺に魅入られたのか。ミステリです。主流は上述の分野にあろうとも、忍殺はテキスト媒体のフィクションとしては非常にミステリ的な作品であり……ミステリファン、中でも講談社ノベルス系列のややひねくれたミステリを好む読者にとって、非常に楽しめるコンテンツなのではないかと私は思っています。

 とはいえ、忍殺は本格探偵小説ではないので、いわゆる筋道だった謎解きがあるわけではありません。私が感じている共通点は、たとえば「真実」と「虚構」の取り扱い方。「原典」と「翻訳」の関係性をメタ的に作品に取り込む構造。情報量過多な現実世界において、名探偵の推理が通用する仮想空間の構築とその破綻。「探偵」という傍観者に向けられた憎悪と怒り。欠陥を抱えた偽物が、偽物であるがままに「本物」に辿り着くおとぎばなし……そういった謎解き物語を通じて扱われてゆく様々なテーマ、物語上に練り込まれる種々の哲学の部分であり、「エッセンスが近しい」とでも表するのが正しいかもしれません。ゆえに、くくりを決めずに共通点を洗うときりがなくなってしまいます。そこで、本テキストでは、メフィスト賞受賞作家作品をベースとし、各作家のファンならば楽しめるであろう忍殺のエピソードを紹介してゆきます。

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 各エピソードのリンクは、非公式wikiの該当エピソードまとめページになっております。エピソードは複数の媒体で公開されておりますが、最上段「Twitter連載ログ」の「◆Togetterまとめ◆」から辿るのが最も読みよいかと思います。また、一部分のエピソードは公式がnote上にアーカイブを行っているため、twitter小説のペースが慣れない場合はそちらに手をつけるのもいいでしょう。(同wiki「Twitter連載ログ」の「◆note版◆」の行に、「要ニンジャスレイヤープラス購読」の記述がないものは、リンク先において無料で全て読むことが可能です)

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森博嗣/ヨロシサン・エクスプレス

【あらすじ】
 ニンジャ国家「ネザーキョウ」と、UCA(ユナイテッド・コープス・オブ・アメリカ)の戦火から逃れるようにして、バンクーバーを出発した北米利大陸横断鉄道ヨロシンカンセン。乗客たちが安堵の声をあげるのも束の間、一室でニンジャの爆発四散痕が発見される。容疑者としてリストアップされたのは、人種・性別・クランもバラバラな、多種多様な殺しに長けたニンジャたち。史上最悪の殺忍鬼ニンジャスレイヤーは、果たして殺忍者の汚名をそそぎ、真犯人の正体を見破ることができるのか。

 上のあらすじを読んで森博嗣というより「オリエント急行」みたいだなあと思った方もいると思うのですが、はい、まさに本作はそのオマージュ作品となっています(公式からの元ネタ言及はないですが、ほぼ間違いないと思います)(『天帝のつかわせる御矢』みたいだなあと思った人は握手をしましょう)。忍殺は、「探偵」の称号を持つキャラが多く登場する小説なのですが、そのほとんどはハードボイルドジャンルであり、エピソードもそちらに傾いたものがほとんど。こうした古典的な「探偵小説」のフォーマットを使ったのものは非常に珍しく、忍殺の中でもわかりやすい「ミステリっぽい」エピソードと言えるでしょう。

 とはいえ、これは一筋縄ではいかないエピソードです。忍殺は、別作品をサンプリングする時、徹底的に分解・理解した上で、忍殺の原理を組み入れて再構成を行う小説です。それは「オリエント急行のエッセンスを組み込みながらも、忍殺であるがゆえに違ったゴールにたどり着く」ということを意味します。本作が、忍殺としての必然性をもって到達した「解決編」は、通常の探偵小説の規範からすると、明らかに逸脱したものです。その由来は複数ありますが、たとえば「忍殺世界は多層構造を持った複雑系であり、推理によって真実にたどり着くことが難しい」というのが一つ。伝奇ファンタジとサイバーパンクSFの混じり合った忍殺は、一つの出来事に対して、視点者ごとの異なる真実を並立して許容します。「探偵が推理に必要な情報を全て得る」ことはまず不可能であり、仮に得たとしても、そこから論理的必然性をもって組み立てられる筋道が複数存在します。これは、そんな世界の中に探偵小説のフォーマットを持ち込んだとき、どんな化学反応が起きるのかと言う実験作であり……Gシリーズ、中でも特に『τになるまで待って』の特色を大きく受け継いだエピソードになっていると思います。

(本エピソードに関しては、このテキストとは逆の視点……忍殺読者に「ヨロシサン・エクスプレス」の類似作を紹介するという記事を以前書いており、そこでも『τになるまで待って』は挙げております。参考までに。)

 「ヨロシサン・エクスプレス」から離れて森博嗣×忍殺を語るなら、サイバーパンク的世界観を持ったWシリーズWWシリーズも挙げざるをえないでしょう。忍殺においても人造人型知性種は存在し(自我を獲得したセクサロイド:ウキヨ。ただし、その知性獲得は半ば偶発的であり人間との関係性はウォーカロンと大きく異なる)、物理世界と接続されたヴァーチャル世界が展開されており、ネットワーク上には物理肉体を持たぬ情報知性が回遊をしています。中でも、SF的なガジェットを用いて別ジャンルのお話を物語るという試みは両者に共通するものであり、たとえば、サイバーパンク幽霊譚「アナザー・ユーレイ・バイ・ザ・ウィーピング・ウィロウ」などは、『幽霊を創出したのは誰か?』と並べて読むと楽しいかもしれません。

 最後に、やや牽強付会気味のひもづけになりますが、殺陣描写の手つきが似ている、というのも個人的な雑感です。忍殺における殺陣(イクサ)は、各エピソードのドラマの決着点でありながら、心情描写は少なく、行動・出来事のみを写実することが多いです。魂を込めた一撃すらも、ただの物理運動として還元されるその筆致は、作品哲学として通底されている「ノー・カラテ、ノー・ニンジャ」に則ったものであり、アクション描写の解像度の高いエピソードに関しては、(これは作品のテンションが大きく異なるため、正直肯けない人もいるかと思いますが……)「ヴォイド・シェイパ」シリーズの剣戟シーンを想起させられるものがあります。近作から例を挙げるなら、「ナラク・ウィズイン」のニンジャスレイヤーvsザンマ・ニンジャ戦などが該当するでしょうか。

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清涼院流水/クルセイド・ワラキア

【あらすじ】
 カルパチア山脈、ドラクル城。企業戦争の舞台となり、荒廃の限りを尽くしたその城に、現代に蘇ったニンジャ・ロード……城主ブラド・ツェペシュが降り立った。人智を超えたカラテの力により企業軍を蹴散らしたブラド・ニンジャは、インターネット生配信によって、全世界に向け国家「ネオワラキア」の統治を宣言する。それを受けて立ち上がったのは、欧州大陸の貨幣経済を支配する巨大宗教組織「論理聖教会」の十字軍。かくして、吸血鬼と神とニンジャが入り乱れる地獄の聖戦が幕を開く。

 ニンジャのブラド・ツェペシュがスマホ片手にヌンチャクを振り回し、その様をYouTubeで動画生配信するエピソードです。よろしくお願いします。おまえ設定がトンチキだからとりあえず流水大説と並べたんじゃねえだろうなと怒られそうですが……まあ、そういう思惑もなくはないのですが……それよりも私は「無茶なコンセプトを成立させる際の、悪ふざけめいた力業と綿密な手続きの両立」という点を推したい。本エピソードは、ドラキュラ×ニンジャ×SNSという風邪をひいたときに見る夢みたいな三題話になっているのですが、三者を接続する際のドラマの整備は恐ろしく精密であり、このイカれたヴラド像が、読み終わる頃には血肉の通ったものとして立ち上がっています。あと、単にめちゃくちゃおもしろいので、読んでください。ネオワラキア建国を巡り複数勢力が鎬を削る群像劇であり、SF的奇想が山のように練り込まれた意欲作にして傑作です。忍殺のベストエピソードに挙げられることもある一本であり、忍殺を読む上で「間違いない」と断言できるエピソードの一つです。

 また、単体で挙げることができなかったため、メインには挙げませんでしたが、現在(2020年8月)twitter連載中の長期シリーズ(AOMシーズン3)も流水大説読者にはおすすめです。舞台はなんと、現代に蘇った明智光秀が支配するカナダ。公式が「正しい日本の歴史」としてぶち上げた忍殺戦国史は、完全に狂人のうわごとでありながら謎の説得力をもって構成されおり、背景にはあの五輪書も登場します。流水大説ではオリンピックでしたが、忍殺では指輪物語になってました。

 「ニンジャ」という存在が持つ特色についても触れておいた方がいいでしょう。ニンジャとは、通常の人間をはるかに超える「カラテ(物理的暴力によって現実を改変する、意思に根差して発される力)」を持った超人であり、彼らの行動は、通常の人間よりも大きな影響を世界に及ぼします。それが引き起こすものは、個人のドラマの分不相応な拡大であり、それは当然、災害となって多くの人間を巻き込んでゆきます。探偵小説を拡大すると災害小説になるように、忍殺においてミクロとマクロはニンジャを通じて重ね合わせられ、しかし、それと同時に断絶した個のドラマとしても語られます。それは時に第四の壁すら越え、読者と作品の関係性という形でも自己言及的に取り扱われます。そこに、JDCシリーズにおける、「探偵」や「探偵小説」を見出すことができると私は思っています。

 また、小説をやる上で「テキスト・ショー」とでも読むべき、新たな挑戦を行っていることも共通点として挙げられます。文showのような、言葉遊びやレイアウトを重点したチャレンジは少ないのですが、一般的な単語の再定義や、過剰なまでの文体圧縮など、twitter連載に最適化された多くの試みが忍殺では行われています。そもそも、twitter連載という型式自体が新しいものであり、通常の小説よりも映像表現に大きく寄せたその読み味は、「SNS紙芝居」とでも言うべきもの。また、その表現は媒体上での最適化に留まらず、そこでしか不可能な「武器」になるまで磨かれています。これらの表現技法に関しては、下のR-9氏の記事がよくまとまっており、おすすめです。

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浦賀和宏/ドゥームズデイ・ディヴァイス

【あらすじ】
 ザイバツ・シャドーギルドの懲罰騎士:ダークニンジャは、キョート共和国で長い休暇をとっていた。殺戮と闘争の日々の隙間にぽっかりと空いた時間が彼に与えたのは、懐かしき旧友との再会。しかし彼の血にまみれた因果は、その安らぎを決して許さない。彼に妻子を殺されたサラリマン・ニンジャスレイヤーと、彼に懲罰された連続快楽殺人鬼デスドレイン。二人の復讐者による憎悪と随喜に満ちた殺戮行は、ダークニンジャに残された微かな人間性すらも引き裂き、キョートの一角を焦土へと変えてゆく。

 忍殺のテーマの一つに、「ビガー・ケイジス、ロンガー・チェインズ」というものがあります。自分を束縛する鎖を切り、檻の外に出たとしても、そこはより大きな別の檻の中であり、より長い鎖に束縛されている。作中にて「入れ子構造のジゴク」と称されるこの題材は、忍殺という作品全体に荒廃と諦念のスパイスを加え、そこから抜け出そうと足掻く者や、今の自分を肯定するべく虚構を真実と思いこむ者を、強烈に輝かせます。言いしれぬ閉塞感がもたらす、対象なき憔悴と葛藤、そして、妄執。それは、『記憶の果て』から、遺作『殺人都市川崎』にまで通底する、あの「痛々しさ」に重ねわせることができるでしょう。

 本エピソードの主役、ダークニンジャ:フジオ・カタクラは上述のテーマを強く背負ったキャラクターです。彼は、主人公ニンジャスレイヤーの妻子を殺した宿敵であり、殺戮を厭わぬ邪悪なニンジャではありますが、同時に、誰よりも重い運命を背負わされ、それに抗うことを選択したキャラクターです。忍殺における「運命」とは何か、とは難しい命題ではありますが、「自らに向けられた自分よりもはるかに大きなカラテ」と概説することができるでしょう(忍殺の基本原理は「カラテ」であり、おおよそはこれで説明が可能です)。忍殺において量的な大小結果は絶対であり、そこにゆらぎはありません。ジャイアントキリングに見えるものは、読者に隠された部分で数字の逆転が生じているに過ぎないのです。ダークニンジャは、その覆せないはずの大小関係を、真っ向からカラテで打ち破ろうとしている男であり、宿敵でありながら、ある意味最も「主人公らしい」キャラです。また、彼が活躍する第二部(本エピソードも第二部に含まれる一話です)の舞台・キョート共和国は、ラスボスによってキョジツテンカンホー(虚実転換法)という幻術が施された土地であり、ゆえに「自分が受け入れている前提を疑うこと」というアンチ・ロックドルームな趣向が凝らされたシリーズとなっています。そこに、『時の鳥籠』や『頭蓋骨の中の楽園』との共通項を見出すこともできるでしょう。

 また、ダークニンジャは、一時、人間性を持たぬ「刀そのもの」と呼ばれるキャラクターでもありました。ニンジャとしてカラテを磨く内に、人間性を喪失し、ただの「現象」に堕してしまうことは、忍殺ではある種の魔境として語られます。「ニンジャとは"である"者ではない。"する"者なり」とは、ニンジャスレイヤーの師匠の台詞であり、忍殺全体における重要なテーマの一つです。それは、傍観者であることを捨て、常に、出来事の当事者であれという意味も部分内包します。他者の世界に土足で踏み入れ、わかったように言語化することは、許されがたい「邪悪」であり、大きな抵抗を生じさせる。そこにあるのは、名探偵という存在の糾弾であり、主観上での(当事者中での)紛い物の真実への賛歌であり、『とらわれびと』における金田の顛末や、『透明人間』のオチに共通するものです。ダークニンジャは、傍観者から当事者へと変わり、現象から人間へと成りあがった存在であり、本エピソードではそんな彼の成長の一つの決着が描かれることになります。一方で、現象となってしまった人間の虚無、そしてそれが引き起こす破滅もじっくりと描かれており、その両者の対比は、本作「ドゥームズデイ・ディヴァイス」の大きな肝となっています。

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殊能将之/『シュギ・ジキ』シリーズ

【あらすじ】
 「シュギ・ジキ(祝儀敷き)」。それは合わせ目が十字にならぬようタタミ十二枚が敷かれた四角い小部屋である。四方の壁には何らかの絵が描かれており、内一枚には隠し回転扉が仕込まれている。ニンジャはそこに潜み、室内に誘い込んだ獲物に奇襲をかけるのだ。ネオサイタマの闇のそこここで、邪悪なるニンジャたちはこの恐るべきトラップ部屋戦術により、多くの獲物を葬り去ってきた。必然、我らが主人公ニンジャスレイヤーの前にも、このシュギ・ジキの脅威は幾度となく立ちふさがることになる。

 「デス・オブ・バタフライ」「ザ・フォーチュン・テラー」「サンセット・アンド・ヘヴィレイン」の三作を代表とする『シュギ・ジキ』シリーズは、忍殺の中でも非常に特殊な位置づけの連作であり、正直、初読の人間に薦めるべきものではありません。しかし、私はこのシリーズに、石動戯作シリーズと同じシニカルさ、ジャンルの自己言及とでも言うべきスカしたパロディ味を感じるのです。玄人好みの内容であろうとも、殊能作品と絡めて紹介するならば、このシリーズ以外にないと私は考えます。

 公式より「原作者の実験、あるいはアルコール依存期の作品」とアナウンスされている本シリーズの最大の特徴は、三作全てオチが「トラップ部屋シークエンス」と呼ばれる下りになっていることです。つまり、どれも別のストーリーでありながら、そのオチにおいては、必ず「登場人物が敵をシュギ・ジキの小部屋に追い詰め、隠し部屋の存在を見抜いて殺し、勝つ」という展開を迎え、話が終わるのです。この同一性は過剰なまでに徹底されており、登場人物名や小部屋の壁の絵柄などの一部を除き、文章までもが一言一句違わずに統一されています。これが何を引き起こすのか。物語の陳腐化です。いずれも、シリアス極まりない内容でありながら、度を越したコピーアンドペーストによって、ドラマが血肉の通わない天丼ギャグへと堕してしまう。探偵小説とは一匹の猿が舐めた真似をしたと時から永遠に同じことを繰り返している狂気の沙汰であり、しかしその狂いは、時折、正気にかえり、その繰り返しにシニカルな視線を投げかけることがあります。それはたとえば『鏡の中は日曜日』における布団が干される館であったり、『美濃牛』におけるどこか冷めたテンションを持った見立てであったりするでしょう。しかし、その繰り返しによる陳腐化をそのまま腐らせて終わるのではなく、新しいものを描くためのキャンバスにしようという熱もまた、忍殺と殊能作品に共通して見られるものだと思います。事実、『シュギ・ジキ』の手法は、このシリーズ内で完結することなく、現在、本編においても適宜挿入され、物語上大きな効果をあげています。

 さて、忍殺には『シュギ・ジキ』シリーズよりも玄人向けな連作が存在します。その名も、ロブスター三部作。「デイ・オブ・ザ・ロブスター」「デイ・オブ・ザ・ロブスター2」「デイ・オブ・ザ・ロブスター3」の三作で構成されるこのシリーズは、一作目が「ゴーストライターによって執筆された疑いがある」とアナウンスされている曰く付きのもの。この意味がわかるでしょうか。つまり、ストーリーのコピーアンドペーストを題材にとった『シュギ・ジキ』に対し、ロブスター三部作は小説『ニンジャスレイヤー』のコピーアンドペーストを題材にとっているのです。「紛い物」「贋作」「デッドコピー」の象徴として(作中ではなくメタ的に)語られるロブスターは、三部作の中で、何とかして自らが「原作」になろうと、『ニンジャスレイヤー』にハサミを振り上げ挑みかかります。そして、そういった「コピーアンドペーストによる陳腐化の中から、オリジナルを産むこと」は、決してこれらの実験作内で留まるものではなく、主人公ニンジャスレイヤーの物語にも、後々、大きく取り入れられてゆくことになります。

(ロブスター三部作については、ヘッズによる下のレビューも強くおすすめします。既読者向けの記事ではありますが、数ある忍殺のレビューの中でも、トップクラスのものであり、一読の価値はあるかと思います)

■ロブスターという現象、あるいは壊れゆくミーミーについて

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舞城王太郎/キックアウト・ザ・ニンジャ・マザファッカー

【あらすじ】
 「カチグミって何だろう?」 センタ試験に勝ち抜いてカチグミになることが大切なのだとママは言う。高校の特進クラスに通うギンイチは、予備校に遅刻しないため、ため息をつきながらゲームセンターを後にした。しかし今日はいつもと違った。パンク・バンドを愛する同校生、イチジクとの偶然の出会い。後日、彼女の無邪気な誘いに乗ったギンイチは、生まれて初めて予備校をサボり、パンク・バンド「アベ一休」のゲリラ・ライブに参加することになる。そこで悪夢の如きニンジャの恐怖が待つと知らずに……。

 全部読め。早く読め。「キックアウト・ザ・ニンジャ・マザーファッカー」だけじゃない。ニンジャスレイヤーを全部読め。……いやあ、そのくらい言ってもいいと思うんですよね。現代の日本作家の小説で、忍殺に最も近いものは何かと問われたならば、私は第一に舞城作品、次いで京極作品を挙げます。私自身、忍殺にドハマりした理由の一つが、この「キックアウト・ザ・ニンジャ・マザーファッカー」を読んで「舞城王太郎の小説みたいだな」「奈津川四郎みたいなタイトルだな」と思ったことでしたから。実際、本エピソードはヘッズの中でも初期の名作と語られることの多いものであり、連載史においてもここでフォロワー数がハネたと言われている作品です。舞城抜きにしても、入口としては最適解の一つであり、ぐだぐだ言う前に読んでしまってもいいでしょう。そんなに長くもありませんし。

 初読の際、多くの人は内容が「アイエエ!」や「ニンジャナンデ!」と言った忍殺のパブリックイメージから離れたものであることに驚くでしょう。勿論、そういった要素もありはしますが、本エピソードは基本的に、非常に端正に作られたボーイ・ミーツ・ガールとして完成しています。ニンジャでもヤクザでもない、ただの少年ギンイチの視点に地の文は強く寄っており、舞城作品の頭の中そのまんま文体ほどでないにせよ、彼の情動は素朴に文章化されてゆきます。我らが主人公ニンジャスレイヤーですらもが、ここではまるでただの恐ろしい怪物のようです。これが呼び起こすのは、多くの「わからない」です。ニンジャが支配する忍殺世界を、ニンジャの存在も知らぬ子どもが見た時、わかることはほとんどなく、視界は「わからない」で埋まります。何かを確信しようにも経験も知識もそこにはなく、縋るべき足場すらもニンジャの実在性が奪ってしまう。そんな中で、ただ一つ真実と信じ込める余地を持つのが、今、自分の横にいる少女と握り合った掌のぬくもりであること。それを握り返す、自分の中の真実を確定させるための実行は、まさしく「踊り」であり、そのぬくもりの上に彼女との心の交流を解釈し、それが本当であってくれと言葉を紡ぐ行為が「祈り」です。

 舞城作品と忍殺のシナジーについては、幾らでも挙げることができるでしょう。現在連載中の二代目ニンジャスレイシャーを主人公とした「AOM(エイジ・オブ・マッポーカリプス)」は、無数の小規模コミュニティが分断されて並立する『世界は密室でできている。』と呼ぶべき世界観になっております。原作者の揺れる実在性、「翻訳」型式というフィルターを用いたメタ的な試みは『魔界探偵冥王星O』プロジェクトを思わせるものであり、twitter連載というチャレンジも『深夜百太郎』に先んじています。『九十九十九』のように言葉の力によって運命が決定されてゆく虚構的熱狂を持ったエピソード(「デッド・バレット・アレステッド・ブッダ」)もあり、『暗闇の中で子供』のように言葉による世界創造が持つ脆弱性と、ゆえに強いられる拷問のごとき苦闘を描いたエピソード(「ザ・ホーリイ・ブラッド」)もあります。何より、主人公ニンジャスレイヤー:フジキド・ケンジが第三部最終章で見せた活躍は、混沌に満ちた世界の中で、自分の意思に根差した力によって出来事の全てに意味をもたせ、「真実」を確定させてゆくという、『ディスコ探偵水曜日』がオーバーラップするものでした。(強いて言うならば、忍殺は推理よりも行動、言葉よりも物理に重きを置いており、その点がミステリを世界のベースに設定している舞城作品との差異でもあります)

 「祈り」や「踊り」、「意志」や「」。舞城作品におけるそれらのキーワードを好んでいる読者ならば、忍殺も楽しめる可能性があります。なぜならば、忍殺においても、「カラテ」や「ジツ」、そして「エゴ」などのキーワードが似たトーンで用いられているからです。両者はどの点で一致しており、どの点で異なっているのか。「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれる」と「ノー・カラテ、ノー・ニンジャ(すべてはカラテなのだ)」は、ほぼ同じことを言っているようでいて、ちゃんと作家性に由来する差異を持っています。その考察をするだけで、きっと夜を明かすことができるでしょう。

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佐藤友哉/レイズ・ザ・フラッグ・オブ・ヘイトレッド

【あらすじ】
 日本とキョート共和国との戦争が激化しつつある中、首都ネオサイタマの様相も、静かに変わりつつあった。かつて多様と混沌に満ちていたその都市は、治安維持機構「ハイデッカー」の新設が契機となり、均質な管理都市へと漂白され始めた。欺瞞と抑圧を引き換えに、多くの市民が安心を手に入れた一方で、それを決して是としない者もいる。反体制違法放送KMCのDJゼン・ストームもその一人。その夜、彼はニンジャとなった息子をメンバーに加え、ハイデッカーを向こうに回した決死のレディオ放送を開始する。

 怒りです。ここにあるのは、燃え上がるような、ただただ大きな怒りです。忍殺は復讐鬼を主人公に据えたサーガであり、憎悪と怒りが重要な要素として何度もクローズアップされます。それが向けられる対象は大切な人を殺した仇であることもあれば、弱者を虐げ抑圧する非人道的なシステムであることもあります。時には、完全なる逆恨みで、ただそばにいた人間や、周囲の環境に向けられることもあります。本エピソードは、ある瞬間を境に、それらの負の感情が強烈なエネルギーとなってドロリと噴き出す、まさしく「残酷な復讐の物語」となっています。

 主人公のDJゼン・ストーム:ヒナヤ・イケル・タニグチは、バンド経験のある42歳の中年男性。彼は既に立派に成熟した大人ではありますが、ディストピアへと変貌してゆく社会への抵抗として始めたレディオ放送の中で、「21歳のライブステージの疾走感と全能感」を蘇らせ、過ぎ去ったはずの「青春状態」に憑依されてゆきます。非暴力を唱え、音楽とマイクの力で社会に立ち向かおうとする彼のメッセージは、思想が強く出たものであり、原作者のリビドーを抑制しニュートラルな姿勢を保ち続ける忍殺の中では、やや例外的なものとなっています。「安易な扇動に乗せられて暴動や略奪に走るな」「自分自身の頭で世界を揺り動かす陰謀を考えろ」。しかし、そういった直接的なメッセージ性自体は、実は本エピソードにおいてそれほど重要な意味を持たないと私は考えています。重要なのは、そのメッセージ性から意味を剥しとった後に残る、「伝えなければならぬ」「伝えなければ己が立ちゆかぬ」という狂気にも近しい意思のパワーであり、そのエネルギー量の大きさです。牙をむいた管理社会の手で、肉を引きちぎられ、仲間を殺され、それでもレディオ放送を死狂い生き狂い続け続ける彼の戦いは、言葉を越えた迫力として読者を殴り倒すことでしょう。

 忍殺における「抵抗」とは、政治的なメッセージでも、感情的なドラマでもなく、必然的に発生する純粋な物理現象です。それは「抵抗は最も単純なリアクションだ。それは単細胞生物でもできる。最も単純な電子回路にもできる。」とも語られており、石を殴れば手も痛む、抑え込もうとすれば反発される、悪いことをすれば怒る奴が出るというように、作用・反作用めいた単純なルールとして設定されています。そこに理由はないのです。理由は全て、現象として発生した上で後付けされる意味でしかありません。それはたとえば、地方都市の閉鎖性に抑圧された青年の中で、自作の売れ行きが芳しくない小説家の中で、因習に踏みにじられて生を終えようとする老婆の中で、原典になりえずもがき苦しむ偽書の中で、ぐらぐらと煮たってゆく油のようなものです。それはやがて、発火点を越え、怒りに満ちた力を産むでしょう。血反吐と共に吐き出された「書かれざるをえなかった」虚構が秘める迫力は、読者を殴り倒すことでしょう。『世界の終わりの終わり』『クリスマス・テロル』『デンデラ』『ダンガンロンパ十神』。タニグチのレディオを聞くとき、そしてそれらの言葉すらも超えて彼が振り上げてしまった憎悪の赤黒い旗を見る時、私はいつも、佐藤作品に込められた「怒り」を思い出すのです。

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西尾維新/アンエクスペクテッド・ゲスト

【あらすじ】
 要人連続殺害テロでネオサイタマ市が揺れる夜。監獄島スガモ重犯罪刑務所に、一基の冷凍コンテナが墜落した。その中に収容されていたのは、生体兵器製造会社ヨロシ・バイオサイバネティカが秘密裏に開発を進めていた、史上最悪のバイオ兵器「カンゼンタイ」! 隙に乗じて脱獄を試みる囚人。カンゼンタイの完全覚醒を目論む社員。ファミリーを守るべく立ち向かう中年ヤクザ。鎮圧に乗り出す警官。人食いモンスターの巣と化した監獄で、無数の決死行が交錯する血みどろの生存闘争が、今、始まる。

 これは「偽物」たちが、死の間際の夢の中で、「本物」になって死んでゆく物語です。デッドコピーから生まれるオリジナル。リフレインの果てに生じる新規性。エラーが例外となって打ち破る閉塞。「偽物」が「本物」になる瞬間は、忍殺において何度も語られてきた普遍的な命題です。忍殺は、「人は一瞬で変われる」と断言しつつも、変われぬままに訪れる夏枯れの停滞を起こりうる未来として描く小説であり、変われないままの欠陥製品が、変わらないままに救われることはありません。しかし、主観と言う幻の中で、死の間際という特異条件下で、偽物たちは紛い物の救済を信じ込むことができます。それはまぎれもなく、「まっかなおとぎばなし」を夢見ることであり、『少女不十分』を語ることでもであるでしょう。

 このエピソードには本編で活躍するメインキャラクターはほぼ登場しません。主役を務めるのは、どこかうだつの上がらない、しょうもない脇役ばかりです。インチキ日本語を話す胡散臭い外国人犯罪者ラッキー・ジェイク。ヤクザもどきの若者を自分の家族だと思い込む中年ヤクザ、ヤマヒロ。住宅ローンの返済に困りしけた金儲けに執心するヤブ医者カブセ。愛社精神を暴走させ公私の境界を失くした社員コーゾ。はみ出し者の暴力刑事の集まりネオサイタマ市警49課。雁首をずらりを揃えたのは、偽物、紛い物、劣化品、出来損ない。お話に中心にいるモンスター・カンゼンタイですらもが、登場時点では未成熟な幼体であり、「完全体」ではなく、カタカナ表記の「カンゼンタイ」なのです。筋の通った中身を持たず、ゆえに狂人にすらなり切れない彼らは、降ってわいた災厄の前に右往左往し、今この瞬間を生き延びるために、「本物」の覚悟を強いられます。変われぬはずの人間が、生き延びるために無理矢理自らを捻じ曲げ、絶叫し、「本物」になってゆくその有様は、まさに生存闘争としか呼ぶしかない凄まじきものであり、その反動を受けるように、彼らはいともたやすく死んでゆきます。本エピソードは、それらの熱いドラマが互いに影響しながら事態を転がしてゆく、グランドホテル型式の群像劇となっており、ハマる人は、とことんハマる内容と言えるでしょう。ちなみに、私が忍殺で一番好きなエピソードはこれです。是非読んで欲しいです。

 「まっかなおとぎばなし」という観点から語るならば、「ニード・フォー・アナザー・クルセイド」もおすすめです(note上でのみ公開されている有料マガジン内の作品ですが、現在、マガジンの試読版として全編が公開されています)。本作はニンジャ狩りを生業とする狂人・ヤクザ天狗が主役を務めるシリーズの一作であり、「ヤクザ天狗が損得勘定から起こした行動を、死の間際のヤクザが尊ぶべき聖なる行為と錯覚し、偽りの救済に包まれて満足げに死んでゆく」という奇怪なフォーマットを持って展開されます。おもしろいところは、ヤクザ天狗は狂人なので、彼本人も自分の行動を「聖戦士の闘い」だと認識しているところです。つまり、客観的な事実をすっとばし、救う側と救われる側が彼岸で手を繋いで共感しているわけですね。この、狂人同士の共感とそれが生む救済とでも読むべきコンセプトは、『悲痛伝』から『悲録伝』までの、空々少年が四国ゲーム編で紡いだ物語と比較して読むとおもしろいかもしれません。 

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辻村深月/ナイト・エニグマティック・ナイト

【あらすじ】
 キョート共和国の進学校に通う少年ナブナガ・レイジは、世界の全てに倦んでいた。カロウシした父親。気のふれた母親。遺産を食いあさる親族。クラスメートは教師に追従し、薄ら笑いで落伍者を嘲っている。彼が唯一好むハイクですらもが、金と権力を持つ人間の読んだ句ばかりが評価され、正しい価値が認められることは決してない。そんな彼にある日届いたのは、そのハイクを高く評価すると言う一通のIRCメッセージだった……。世界を呪う少年の前に垂らされた蜘蛛の糸の上で待つのは、救済か、それとも。

 このエピソードは、『冷たい校舎の時は止まる』とのマリアージュと言えるでしょう。狭い視野で得た少ない情報を元に、小さな密室の中で足りない言葉によってもたらされたハッピーエンドは、何とグロテスクで、歪んでいることでしょう。それは大人の鑑賞に耐えられるものではありません。そこには、知識がなく経験もなく、ただただ幼稚で未成熟な一方的な世界認識説明だけがあります。しかし、それは間違いなく、誰にとっての真実でもありました。客観性を持った正しさはなくとも、過去、その瞬間の少年少女にとっては、まぎれもなく本気でつかみ取ったと思った「正しさ」です。その間違いは否定するべきものではなく、黙って抱きしめるべきものでしょう。過去、それがさも正しいかのように物語にオチをつけ、ある種のグロテスクを生んだとしても、時間の流れはその視野をゆっくりと広げ、やがて『ロードムービー』で語られたような新たな世界の土壌となるはずです。

 ナブナガ・レイジは、第二部に登場する悪の組織ザイバツの構成員であり、いわゆる「敵ニンジャ」の一人です。初登場時、ただの未熟な少年ニンジャに過ぎなかった彼は、ニンジャスレイヤーとの戦いを生き延び、物語の中で成長を遂げてゆきます。このエピソードは、彼がニンジャになるまでの顛末を語ったいわゆる「過去編」にあたります。そこで描かれたもの、それはニンジャという存在への無邪気なまでの信仰でした。未熟な彼が信じ込んでいた「ニンジャになれば全部思い通りになって、うまくゆく」というバカげた夢想は、本エピソード内限定で、強く強く肯定され、彼の冷たい校舎の時を停めてしまいます。「ナイト・エニグマティック・ナイト」は、まさに、その一瞬の間だけに存在する「幻のハッピーエンド」を切り取った嘘であり、それは、本編の中で、幾度となく踏みにじられ、否定されてゆくことなります。

 ナブナガ・レイジは成長するニンジャです。彼は幾多の挫折と出会いを繰り返し、ただの偶然に過ぎなかったハッピーエンドを、再解釈し、しかし、決して否定することなく、未来に向けてカラテを奮います。その物語は、『冷たい校舎の時は止まる』から近作に至るまでの、辻村作品の変遷と重なり合う部分が多々あります。視野の拡大、他者の視点の意識、時間がもたらす融和、あるいは妥協、それでいて、決してあの頃を否定はしない優しさ。今回メインに取り上げたのは「ナイト・エニグマティック・ナイト」のみでしたが、もしこれで彼に興味をもったなら、第二部、第三部と読み進み、彼の成長譚の結末を見届けて欲しいところです。現在、twitter連載されているのは、第一部~第三部の十年後の時系列である「AOM(エイジ・オブ・マッポーカリプス)」シリーズであり、そこには十年後の大人になったナブナガ・レイジも登場します。忍殺は基本的に、メインキャラクターたちに「綺麗な幕引き」を用意することはありません。生き延びたものは、人生の続く限り、舞台の上に引きずり上げられ、何らかの苦闘を仕入れられます。死ぬときは、テーマを解題するための駒としてではなく、ただの生きた人間としてさっくりと死んでしまいます。閉じられない物語は、過去の物語をちゃぶ台返しし、台無しにすることもあるでしょう。しかし、ナブナガ・レイジというキャラクターは、大人になって、それが独りよがりな物語だとしってもなお、今なお未熟な視点に寄り添い、新たな『冷たい校舎』を『かがみの孤城』のように語ることができるキャラクターなのです。

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 以上、八人のメフィスト賞作家にひもづける形で、八本のエピソードの紹介を行いました。本テキストは言うまでもなく私の読解に根差したものであり、実際に読んでみたら多々「それは違うよ」が生じることでしょう。それを見つけだし、自分だけの読書を実現するためにも、是非、『ニンジャスレイヤー』に触れて頂けると嬉しいです。十年間、ファンを惹きつけ続けた連載の厚みは伊達ではありません。めちゃくちゃおもしろいよ!