無題

魔人清志郎大いに湯欲む

 段々を一つ上る度に、落とした指の痛みが増し、人の領域から一歩外れる。何段上ればそこはお山か。気づいたときはもう遅い。 祖母の歌で聞いた通り、あちらとこちらを区切る境界線は不明確で、ゆえに誰でも踏み越えられる。超えたとわかるのは、こちらを値踏みする者たちの目の数がいずれも二つではないと気づいた時だ。

「あんたの腐れた指なんて何本あっても足りゃしない」
「……責任はとります」
「湿気た鉄砲玉に何ができる。番頭を殺されかけて頭まで真っ赤になってる華蓮のドブ湯に謝りにゆくかい?ご自慢の屁で泡立てた風呂で煮殺されるのがオチだろう」

 アハハ、と女将は楽しそうに笑った。弁天極楽温泉が三代目。立場上俺を責めはしたが、本心では抗争の始まりを喜んでいた。血で湯を洗うこの温泉街の殺し合いに勝ち続けたその経歴は洒落ではない。女将は、うずくまり震えるだけの俺を視線で嬲り、決めたよ、と紅を引いた唇を割いた。

「あんたは生贄になりな」

 渡されたのは一通の手紙だった。宛先は志吹清志郎。おとぎ話で飽きるほどに聞いた名前だった。赤茶けた湯煙の中から子どもさらって丸のみにする男。あるいは、赤茶けた湯煙の中からいじめられた子供を助けにくる男。どちらの評判が正しいかは知らないが、少なくとも湯煙の色の伝承は正しかったらしい。

 七段鳥居の足元から八百十三段目。

 そこで右を向く。

 縮れ折れ狂い咲く牡丹状の植物と、捻じれた旅館。それらで埋もれた空間を押し歪めるように広場があり、その中央に小屋があった。蒸気で溶けたように崩れかけた屋根と壁は、異様に赤い湯だまりに半身を沈め、その表面にぶらさげた夥しい数のやっこさんをバサバサガサガサとやかましく鳴らしている。

 湯だまりが足湯だと判ったのは、和装の男がそこに足を浸していたからだ。男は想像よりもはるかに気安い様子で、俺を見つけて手を振った。

 魔人の目の数は、意外にも俺と同じ二つだった。

【続く】