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小説|三十七峠〔Part4〕

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◇◆◇

 帰り道は下り勾配になる分、歩くのは楽だろうと思っていたが、大間違いだった。
 薬茶屋を出て、降り続く雪の中を、傘をさして坂を下る。それは非常に不安定で、体力を消耗することだった。
 帰りのバスは、2時半と4時半ですから。運転手に言われた時刻を、ふと思い出す。2時半は余裕だと思っていたが、大丈夫だろうか。
 慣れない雪道に、少し気を抜くと、すぐに靴が滑る。長靴ではなく、きちんとしたスノーシューズを用意するべきだった。
 息が荒くなり、刃物のような寒さの空気を吸い込むたびに、胸がきんと小さく痛む。分かれ道の道標まで戻った頃には、もう既に、ふくらはぎが張り始めていた。
「・・・こんなに動いてるのに、なんで寒いんだ」
 独り言を言おうとしても、何故か声が出ない。
 改めて、ニット帽を持ってこなかったことを、激しく悔やんだ。フードなんか被っても、慰めにしかならない。耳が冷え切ると、こんなに辛いものなのか。
 息が、上がる。それなのに、ただひたすらに寒い。
 太陽が隠れているせいか、時間の感覚も、とっくに俺を見放していた。立ち止まりたくなる度に、腕時計を見て、無理にでも足を進める。2時半のバスに遅れたら、と考えるのは、恐怖でしかなかった。
 もう、雪を見たくない。
 奈々の、そして弘樹の笑顔を、脳裏に思い浮かべる。歩け、俺は帰るんだ。歩け、ただただ歩け。大袈裟ではなく、そう自分を奮い立たせなければ、帰れなくなりそうだった。
 何とか歩き続け、バス停まで戻ることができた時、時計は2時24分を表示していた。良かった、何とか間に合ったぞ。安堵した瞬間、膝の力が抜けて、俺はその場にしゃがみこんでしまった。

 数分遅れで来たバスの中は、最悪なことに、外気温と変わらないくらい寒かった。
「申し訳ありませんね、エアコンが壊れちまってて」
 そう謝る運転手に、文句を言う元気もなく、俺は黙ったまま、最前列の2人がけシートに座り込んだ。
 バスの中に、俺以外の乗客は誰もいなかった。他人の体温がないことで、寒さが更に増す気がする。
 ニット帽だけでなく、食料も持ってこなかったことを、俺は重ねて悔やんだ。何かを口にすれば、きっと少し、体温が上がっただろう。
 けれど、もう、バスが終点に着くのを待つだけだ。せめて、窓の外に広がる雪景色を見ないよう、ぎゅっと目を閉じて。
「次は終点、N駅前です。ご乗車ありがとうございました」
 そして、ついに聞こえたそのアナウンスは、まるで神の声のようだった。
 バスが止まると同時に立ち上がると、一瞬、ぐらりと世界が歪んだ。疲れか寒さか、原因はわからないが、立ちくらみを起こしている。ひと呼吸おいて自分自身を落ち着け、バスを降りると、俺は行く時に缶コーヒーを買った、自動販売機へと直行した。
 やっと、温かいものが飲める。そう思い、小銭を入れて・・・。
「う、嘘だろ!」
 思わず、声が出た。
 温かい飲み物が、すべて売り切れだったのだ。
「マジかよ・・・ふざけんなよ」 
 仕方なく返却レバーを回し、小銭を回収すると、俺はきびすを返し、ふらふらと歩き出した。
 大丈夫、車に乗ったらエアコンが効くから、もう少しの我慢だ。走り出したら、最初のコンビニで、何か温かいものを買おう。
 ああ、やっとここまで帰ってきた。
 雪の上に残る足跡に、街の気配、人の影を感じて、俺は膝から崩れそうになる。
 もう少し、踏ん張れ。
 あと5分も歩けば、車を停めた駐車場なのだから。
 寒いを通り越して、頭がぼんやりしている。手と耳の感覚もない。灰色が・・・きっと、ずっと灰色しか見ていなかったからだ。少しは色があるはずの、街まで戻ったというのに、視界にはモノトーンしか映らない。
 もっと、踏ん張れ。
 車まで5分、そして、そこから運転して2時間。弘樹のところまで、弘樹がいる病室まで。
 足が、重い。力が入らない。
 弘樹を、失うわけにはいかない。
 もっと、もっと、踏ん張れ。
 ・・・・・・?
 一瞬、視界が白くなり、俺は反射的に立ち止まった。
 何だ、今のは?
 そう思った途端、今度はぐらりと足元が揺れる。
 そして。
 暗転する。
 そこからはもう、身体が言うことを聞かなかった。膝が緩み、立っていられない。
 すべての感覚が遠のき、そして、俺は意識を失って、その場に倒れ込んだ・・・。

◇◆◇

 だいすけ!
 大輔。
 大輔!!!
 俺の名前を呼ぶ声が、暗闇の向こうから聞こえる。
 大輔、戻ってこい! そう言っているのは、弘樹だ。名前を呼び続けているのは、母の声。小野田さん、わかりますか、そんな知らない声も聞こえる。
 俺の周りに、いるんだ。
 そう気付き、俺は目を開けた。
「大輔!」
 母と弘樹の声が、重なって流れ込んでくる。
 頭が、割れそうに痛かった。そして、口の中がやたらと苦い。
 ぼんやりとした世界が、やがて像を結ぶと、そこには俺を覗き込む、弘樹と母の顔があった。何故だろう、2人とも、目を真っ赤にして泣いている。
「・・・弘樹。母さん」
 そう呼んだつもりだったが、上手く声にならなかった。
 2人の顔の向こうに、蛍光灯と白い天井が見える。腕につながった点滴の管と、指先に挟まった硬い何か。俺は、病院のベッドに寝ているのか?
「良かった、俺、大輔が起きなかったらどうしようって、ずっと・・・」
 弘樹が泣きながら言い、そして、言葉を失う。
 どうなっているんだ、これは?
 状況を飲み込もうとしても、あまりにも頭が痛くて、上手く考えることができない。 
 俺は、三十七峠まで、薬草茶を買いに行ったのだ。そして、バスでN町に戻ったものの、駐車場までたどり着けずに気を失った。そんな俺を、誰かが病院まで運んでくれたのだろう。
「小野田さん、わかりますか?」
 野太い声が、まとまらない俺の脳味噌に割って入る。白衣を着た、この男はきっと医者だ。隣に、看護師の姿もある。
「わあいあえん」
 わかりませんと答えようとしたが、口が回らなかった。
「でも、僕の言葉の意味はわかってますね」
 医者はにっこりと笑うと、俺の頭上に手を伸ばして、何かに触れた。確認したかったが、とにかく頭痛が酷くて、動けない。
「あなたは4日前、強く頭を打って、この病院に運ばれたんですよ。それから、ずっと眠ったままだったんです」
 はっ?
 何を言っているんだ、この男は。
 それは、弘樹の話だろうが・・・そこまで考えたところで、思考回路が止まった。その弘樹が起きて、立っていて、俺がベッドに寝かされている。
 どうなっているんだ、これは。
 確かめたいけれど、上手く言葉が出なかった。頭が酷く痛い、口の中が酷く苦い。誰か説明してくれ、何なんだ、いったい。
 こんな時なのに、どういうわけか、また意識が遠のいてくる。眠気か、これは。状況をつかみたい気持ちを抱えたまま、俺はたちまち、抗いがたい睡魔に飲み込まれていった。

※三十七峠〔Part5〕に続く

この小説は、しめじさんの企画 #写真から創る
参加させていただいております。


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