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〔小説〕三十七峠・全文

※5回に分けた小説の全文掲載です※

◇◆◇

 ああ、やっとここまで帰ってきた。
 雪の上に残る足跡に、街の気配、人の影を感じて、俺は膝から崩れそうになる。
 もう少し、踏ん張れ。
 あと5分も歩けば、車を停めた駐車場なのだから。
 寒いを通り越して、頭がぼんやりしている。手と耳の感覚もない。灰色が・・・きっと、ずっと灰色しか見ていなかったからだ。少しは色があるはずの、街まで戻ったというのに、視界にはモノトーンしか映らない。
 もっと、踏ん張れ。
 車まで5分、そして、そこから運転して2時間。弘樹のところまで、弘樹がいる病室まで。
 足が、重い。力が入らない。
 弘樹を、失うわけにはいかない。
 もっと、もっと、踏ん張れ。

◇◆◇

 警察官をしている弘樹が、職務質問の際に頭を強く殴られ、病院に運ばれてから、もう3日になる。
 あの日、勤務中に連絡を受けた俺は、車の整備の残りを同僚たちに任せ、ツナギを着たまま職場を後にした。
「あっ、大輔・・・」
 駆けつけた病院には、すでに両親が到着しており、母は俺の顔を見た途端、糸が切れたように崩れかけた。父が慌てて、母の身体を支えなかったら、その場に倒れてしまっただろう。
「弘樹は?」
「病院に運ばれた時は、意識があったらしいんだけど、今は眠ってるんだ。このまま入院になるから、大輔もそのつもりでな」
 泣き出した母を支えたまま、父が俺に答える。
「わかった、俺にできることはするよ」
「ああ、頼む。弘樹は、今のところは安静と点滴で経過を見るけど、状況によっては手術かもしれないって」
 手術。頭の?
 そんなに、重症なのか?
 急いで頭を振り、嫌な予感を追い払う。大丈夫だ、俺の弟が、そんな簡単にどうにかなってたまるかよ。
 そう自分を奮い立たせ、俺は自分の役割を必死にこなした。入院に必要なものを買いに行ったり、弘樹の婚約者を励ましたり、医者の話を必死に聞いたり。
 大丈夫だ、大丈夫だ・・・けれど、個室に移され、点滴や機械や管をつながれた弘樹は、この3日間、ずっと眠り続けている。

 兄弟と言っても、弘樹と俺に血のつながりはない。同い歳の俺達は、小六の時、弘樹の母と俺の父が再婚して、家族になったからだ。
 幸い、母は懐の深い人で、俺を弘樹と同じように、自分の息子として扱ってくれた。態度も教育も、経済的にも、何もかも。今まで20年間、俺達が仲良くやって来られたのは、少年時代に必要としていた愛情を、母から均等に与えられたおかげだと思っている。
 中学、高校と、俺達は2人とも野球部に入り、弘樹はショート、俺はセカンドを守っていた。同じ家、同じ学校、同じ部活。あの頃は何をするのも一緒だった。
「大輔は、背が高いからいいよなあ 」
 高校生になり、身長が確定した頃、弘樹は時々、俺にこう言ったものだ。
「弘樹だって、小さくはないよ」
「でもさ、大輔と並ぶと、俺は実際より、低く見えちまうんだよな」
 だけど、顔はおまえの方が、俺よりずっとカッコいいだろ。心の中に浮かぶこの言葉は、なんだか悔しくて、実際に声にすることはできなかった。
 やがて、高校を卒業すると、弘樹は地元の大学を経て、警察官になり、俺は専門学校で学んだ後、車の整備士として働き始めた。
「2人とも、30までに結婚しなかったら、家を出て独り立ちしろよ」
 父が僕達にこう言い始めたのも、同じ頃だ。幸い、その年齢をはさんで、俺は昨年結婚を済ませ、来年は弘樹も式を挙げる。あいつの新しい時代が、もうすぐ始まるというのに。
 なあ、弘樹、目を覚ませよ。独身最後のクリスマス、楽しみにしてるんだろ? 琴美ちゃんとディナーに行くって、約束しているくせに、寝てるって何だよ。
 早く起きないと、クリスマスを通り越して、正月になっちまうぞ。
 頼むよ、頼む。
 お願いだから、早く起きてくれよ・・・。

 頭部外傷。脳震とう。脳挫傷。開頭手術。
 弘樹が入院して以来、俺は暇さえあれば、パソコンでこれらの単語を検索しまくっていた。
「ネットで病気は治せないんだから、程々にしなきゃ駄目だよ」
 睡眠を削る俺を心配しての、奈々の言葉さえ、この時だけはうっとうしく感じてしまう。
「わかってるよ。わかってるけどさ」
 何かしていないと、叫び出しそうなんだよ。
 幸い、声にしなかった言葉を察してくれたのか、奈々はそれ以上何も言わず、代わりにコーヒーを淹れてくれた。
 彼女と結婚して良かったと思うのは、こんな時だ。
 こういう思いを、何気ない幸せを、これから弘樹も味わうはずなのだ。
「・・・三十七峠?」
 だから、戻って来い。そう強く願いながら、意識を戻すと検索した、次の瞬間。
 その文字達に、ふと目が止まった。
 三十七峠の奇跡。三十七峠の薬。
「何だ、これ」
 三十七峠で買った薬のおかげで、意識が戻った、頭部外傷の後遺症が残らなかった。三十七峠で検索し直すと、そんな話が、次々とモニターに浮かんでくる。
 そこに行けば、頭の怪我に効く薬が買えるというのか?
 何のおとぎ話なんだ、これは?
 半信半疑で掘り下げると、実際にそこに行き、薬を買ったという人のブログが見つかった。交通事故にあった娘さんの意識を呼び戻すため、薬を手に入れ、藁にもすがる思いで与えたら、翌日には目を覚ましたというのだ。
 そんな、都合のいい話があるものか。頭では否定しながらも、俺の右手は勝手に動き、三十七峠についてのメモを取り始めていた。

・N町の駅前からバスに乗り、三十五峠という停留所で降りてから、細い道を40分ほど歩く
・停留所付近から三十七峠までの道は、車の通行が禁止されているため、自家用車では行けない
・別れ道に「←薬茶屋」という道標があるので、左に入ってさらに5分くらい行くと、古い大きな家にたどり着く
・電話やメールなどの連絡先情報は、全くない
・何故か、三十七峠では写真を撮っても、画像が真っ白になってしまう

 本当、なのだろうか。
 N町はここから、高速道路を使えば、車で2時間ほどの距離だ。路線バスの時刻表を調べると、始発は9時ということがわかった。
 つまり、行く気になれば、日帰りで戻って来られるということだ。
 意識を失うほどの頭の怪我が、薬草茶で治るなんて、普通に考えればありえない。まして、N町は雪の降る地域であり、夏ならばとにかく、年の瀬に行くような場所ではないのだ。
 けれど。
 このブログ以外にも、具体的に語るSNSやホームページが、いくつも存在した。それらはすべて、薬の効果を、事細かに語りかけてくる。
 幸いなことに、明日は休みだ。
 そう思うと、居ても立ってもいられない。
 効かなかったとしても、現状のままなのだから、試してみる価値はあるだろう。そう判断した俺は、三十七峠の正確な場所について、地図の検索に入った。

◇◆◇

 高速道路を降りる直前、降り始めた雪は、N町に着く頃には本降りになった。
 三十七峠に行くことは、奈々には伝えてきたが、出張とごまかして、薬を買いに行くとは言っていない。自分でも半信半疑なことを、彼女に話したら、今度こそ固く止められてしまうだろうから。
「半端なく、寒いな」
 声に出した独り言が、口の前で白く煙る。
 初めて来たN町は、ひなびたという言葉がぴったりの、とても寂しい街だ。コンビニでおにぎりでも買いたかったが、車を停めたコインパーキングからバス停までの間に、開いている店は見つからなかった。
 仕方なく、自動販売機で缶コーヒーを買い、傘をたたんでバスに乗り込む。意外と多い乗客は、温泉郷へ行く人達と、雪山へ向かう登山者だろうか。1人がけシートの3列目が空いていたので、俺は身体を押し込んで座った。
 それを待っていたかのようにドアが閉まり、バスが動き出す。
 車内は寒く、ダウンジャケットを脱ぐことができなかった。手袋とマフラーは持ってきたが、ニット帽を忘れたことが、今更ながら悔やまれる。ダウンのフードを被れば、どうにかしのげるだろうか。
 走り始めてしばらくは、車窓の向こうにいくつか見えた家々が、進むにつれてまばらになる。そして、20分も過ぎた頃には、色彩のない、山道の風景ばかりになった。予想していたより、ずっと暗い景色だ。
 こんなところを、俺は歩かなければいけないのか。そう思うと、来てしまったことを後悔したくなる。
 ・・・弘樹。
 諦めるわけにはいかない。
「俺の結婚式ではやっぱり、大輔のこと、兄さんって紹介するんだよな」
 先月、2人で飲みに行った時に交わした、何気ない会話が、ふと頭をよぎる。
「そういうことになるな。俺、笑っちゃうかもしれねえよ」
「笑うなよ、絶対」
「自信ねえなあ。第一、弘樹だって俺のこと、兄貴なんて思ったことないだろ? 歳が同じなんだから」
 そりゃそうだよ。てっきり、そういう返事が返って来ると予想していたのだが、弘樹の反応は違っていた。急に真顔になり、テーブルの上のグラスに目を遣りながら、彼は一言、こう呟いたのだ。
 そんなこと、ねえよ。
「まもなく三十五峠、三十五峠バス停です。お降りの方は降車ボタンを・・・」
 不意に、バスの中にアナウンスが流れ、俺の物思いを一気にかき消した。降車ボタンを慌てて押し、冷えてしまった缶コーヒーを一気に飲み干す。それと同時に、バスが止まった。
「こんなところで降りて、どこへ行くんですか?」
 運転手が、いぶかるように尋ねてくる。
「あの、三十七峠の家に用事があって」
「ああ、たまにいるんですよね、そう言って降りる人。でも、冬に来る人は珍しいですよ」
 気をつけてくださいね、帰りのバスは、2時半と4時半ですから。念を押す運転手にお礼を言って、バスを降りると。
 そこは、上り坂の途中だった。
 左側にも右側にも、雪を被った木々が、連なって立っている。視界に入るすべての色は、白と黒、そして灰色だけだ。道路は除雪されているのだろうが、それでも雪が積もり、アスファルトはまったく見えなかった。
 おまけに、肺が痛くなるほどの強烈な寒さ。
 でも、行くしかない。ここまで来たら、信じるのみだ。
 ダウンジャケットのフードを被り、傘をさして、俺は慎重に歩き出した。

 10分ほど坂を上ると、道路は分かれ道になった。
 久し振りに青い色が目に入り、顔を上げた先に、小さな道路標識がある。道なりに進むと三十七峠、右に曲がると三十六峠とのことだ。
 雪は、相変わらず降り続いている。
 道なりの方が、道路の幅がずっと細い。おそらく、俺が乗ってきたバスは、ここで右折して行くのだろう。迷わず直進すると、ここより自家用車立ち入り禁止、という赤い文字の看板があった。
 それを過ぎると、景色は再び、色彩のないモノトーンの世界に戻る。
 勾配はさらにきつくなり、車が出入りしないせいだろうか、急に雪の厚みが増したような気がした。
 進めば進むほど、足が重く、息が荒くなる。鼓動は速まっているのに、身体は汗ばむどころか、冷えていく一方だ。フードの隙間から入ってくる風の冷たさに、耳がちぎれそうに痛む。
 せめて、降る雪が止んでくれればいいのに。傘をたたむことができれば、もっと楽に歩けるはずだ。けれど、頭上の雪雲は消えるどころか、さっきより灰色が重くなっている。
 ああ、たまにいるんですよね、そう言って降りる人。
 俺を支えているのは、意外にも、バスの運転手が言っていた、この言葉だった。 
 目的物など何も見当たらない、あのバス停で降りる乗客がいるということは、三十七峠の家は、薬はきっと、本当に存在するのだ。
 息苦しさを感じながら、それでも必死で呼吸を繰り返し、足を動かし続けて、どれくらいの時間が過ぎただろう。俺はやっと、目印の分かれ道にたどり着いた。
〈←薬茶屋〉
 昨夜読んだ、経験者のブログに綴られていたとおり、二股に分かれた道の間に道標がある。木の幹に打ち付けられた板に、黒のペンキで、くっきりと文字が記されていた。
「あった・・・」
 無意識に飛び出した自分の声が、他人のもののように掠れている。
 運転手の言葉に続く、2つ目のリアルな根拠。
 目の奥が、ぐっと熱くなる。泣きたくなる気持ちが鎮むよう、大きく頭を横に振ってから、俺は左の道を歩き始めた。

◇◆◇

 やがてたどり着いた、平屋建ての家は、俺が今まで見た、どの家よりも大きかった。
 門はなく、その代わりに、除雪された雪が積み重なって、道路と敷地の境目を示している。玄関の前の外構は、新たに降った雪に覆われて見えないが、靴底の感覚から、コンクリートが敷いてあるとわかった。
 雪が乗った屋根の端から、瓦の黒い色が、わずかに顔を出している。外壁は薄い灰色、玄関の引き戸は黒。その家は、まるで景色のような無彩色だった。
 ここで、いいんだろうか。恐る恐る白い表札を覗くと、黒い文字で「薬茶屋」とある。分かれ道で見た道標を思い出し、俺は思い切って呼び鈴を押した。
 家の中で、誰かが動く気配がする。バスを降りた後、ずっと感じることがなかった、自分以外の生き物の気配。
「どちら様ですか?」
 そして、女性の声とともに、引き戸が開いて。
 ・・・琴美ちゃん?
 出てきた女性を見て、俺は一瞬、言葉を失った。彼女を、弘樹の婚約者と見間違えたからだ。
 しかし、実際はそんなはずもなく、そこにいる彼女の顔は、琴美とはさほど似ていなかった。肩までの真っ直ぐな髪と背格好が、同じように見えただけなのだろう。
「あの、小野田、だ、大輔と申します」
 唇と頬がこわばって、自分の名前もスムースに言えない。
「こちらで、頭の怪我に効く薬、買えるって聞いて・・・あの、譲って、いただけないかと」
「歩いていらっしゃったんですよね? こんな時期に?」
「はい、あの、急ぐんです。俺の、いや、僕の弟が怪我で」
「まずは、お上がりください」
 彼女はしどろもどろな俺の話を遮り、左側に延びる廊下へと、俺を案内した。慌てて長靴とダウンジャケットを脱ぎ、彼女の後に続きながら、マフラーと手袋も外す。
 古い家だ。砂壁というのだろうか、ざらざらした壁と、磨きこまれて飴色になった床。彼女は、廊下のいちばん手前にある障子を開け、広い和室へと俺を通した。
「寒かったでしょう? どうぞ、炬燵に」
 その言葉に甘えて、赤い炬燵布団を上げると、ふわりと炭のにおいが漂う、昔ながらの掘り炬燵だった。脚を入れると、電気炬燵とは比較にならないほど暖かい。
 あまり、物がない部屋だった。テレビもエアコンも、カレンダーの類もない。炬燵と座布団の他にあるのは、大きな石油ストーブと、古い立派な茶箪笥、そして白い電気ポット。
 壁にかかっているものは、古びた縦長の振り子時計だけだ。時間は、11時少し過ぎを示している。
 バスに乗ってからここまで、2時間もかかったのか。
「私は、やざやさおり、と申します」
 彼女は茶箪笥から急須と湯呑みを出し、お茶を淹れながら、そう名乗った。
「やざや、さん」
「くすりちゃや、って書いて、やざやって読むんですよ」
 ・・・え?
 表札と道標に書かれていた、3文字の漢字。薬茶屋。あれは、薬茶の店という意味ではなく、苗字だったのか。
 頭を殴られたような気分で、俺はさおりに気付かれないよう、ため息を静かに逃がす。薬茶の店では、ない?
「苗字って聞くと、皆さんがっかりしますけど、ここで薬草茶は販売しています」
 そう言いながら、さおりは俺に湯呑みを差し出した。
「ありがとうございます、いただきます」
 薬草茶が、ある。
 その事実と、ほうじ茶の熱さに、俺の体温が一瞬、きゅっと上がった。
 薬草茶が、ある。
 弘樹を、呼び戻せるかもしれない。
「お話を、お聞かせ願えますか? 小野田さんが、薬を飲ませたい方の状態について」
 さおりは、自分もほうじ茶で口を潤すと、そう言いながら、俺の目をぐっと覗き込んだ。

 どこからどこまで話せばいいのか、それがわからず、俺は弘樹の現状を、そのままさおりに伝えた。
 頭を殴られ、意識が戻らないこと。今のところ安静にして様子を見ているが、今後、どうなるかわからないということ。そして、来年、結婚を控えていることも。
「それなら、弟さんは今、すごく幸せな時ですよね。仕事で怪我をしたなんて、お気の毒に」
 やさしい人なのだろう、さおりは俺の話が終わると、真っ先にそう口にした。
「私達の薬草茶は、春から秋までの間に材料を集めて、冬に調合するものです」
 そして、話が本題に入る。
「祖母と母が調合していますが、2人とも医者でも薬剤師でもないし、薬草茶自体も、医薬品ではありません」
 この話は、経験者のブログに書かれていたので、俺も事前に理解しているものだ。驚きはなかった。
「ですから、絶対に効くという保証もありません。効く時は効く、駄目な時は駄目。それをご了承いただけるのなら、販売させていただきますが」
 胸の奥に押し込んでいた、小さな不信感が、ちらりと顔を覗かせる。頭の怪我に効く薬草茶など、平常時に聞いたら、きっと眉唾ものだと思うだろう。
 でも。
 すがれるものがあるなら、何にでもすがりたい。
「了解しました。買います。買わせてください」
 俺の返事を確かめると、さおりは茶箪笥の下段から、大きくて平たい漆塗りの箱を取りだした。
 黒地に金の蒔絵で、羽ばたく二羽の鶴が描かれた、とても美しい箱だ。さおりがその蓋を開けると、五角形に折られた、様々な色の薬包紙が、たくさん収められているのが見えた。
 何色くらいあるのだろう。青、水色、銀鼠色・・・いや、名前を知らない色のほうがずっと多い。さおりはその中から、茜色の薬包紙を3包取り出し、俺の前に置いた。
「中身は薬草の粉末です。いろいろな調合がありますが、お話の内容だと、これが一番いいかと」
 ひとつを手に取ってみると、あっけないほど軽い。
「本当はお湯に溶いて、お茶にして飲むのですが、弟さんは無理ですよね」
「そうですね、意識がないんで」
「じゃあ、ぬるま湯に溶いて、それを綿に吸わせてから、口の中に塗るようにして、あげてください。できるだけ少ないぬるま湯で、できるだけ濃いお茶を作ります」
 なるほど。それなら、飲まなくても摂取できる。
「時間をかけて、ゆっくりとあげてくださいね。間違っても、お茶が喉に流れることのないように」
「わかりました」
 3包の薬草茶は、びっくりするほど高額だった。でも、もう、後戻りはできない。言い値の費用を支払い、薬包紙を入れた紙袋をポケットにしまうと、俺は店を後にした。

◇◆◇

 帰り道は下り勾配になる分、歩くのは楽だろうと思っていたが、大間違いだった。
 薬茶屋を出て、降り続く雪の中を、傘をさして坂を下る。それは非常に不安定で、体力を消耗することだった。
 帰りのバスは、2時半と4時半ですから。運転手に言われた時刻を、ふと思い出す。2時半は余裕だと思っていたが、大丈夫だろうか。
 慣れない雪道に、少し気を抜くと、すぐに靴が滑る。長靴ではなく、きちんとしたスノーシューズを用意するべきだった。
 息が荒くなり、刃物のような寒さの空気を吸い込むたびに、胸がきんと小さく痛む。分かれ道の道標まで戻った頃には、もう既に、ふくらはぎが張り始めていた。
「・・・こんなに動いてるのに、なんで寒いんだ」
 独り言を言おうとしても、何故か声が出ない。
 改めて、ニット帽を持ってこなかったことを、激しく悔やんだ。フードなんか被っても、慰めにしかならない。耳が冷え切ると、こんなに辛いものなのか。
 息が、上がる。それなのに、ただひたすらに寒い。
 太陽が隠れているせいか、時間の感覚も、とっくに俺を見放していた。立ち止まりたくなる度に、腕時計を見て、無理にでも足を進める。2時半のバスに遅れたら、と考えるのは、恐怖でしかなかった。
 もう、雪を見たくない。
 奈々の、そして弘樹の笑顔を、脳裏に思い浮かべる。歩け、俺は帰るんだ。歩け、ただただ歩け。大袈裟ではなく、そう自分を奮い立たせなければ、帰れなくなりそうだった。
 何とか歩き続け、バス停まで戻ることができた時、時計は2時24分を表示していた。良かった、何とか間に合ったぞ。安堵した瞬間、膝の力が抜けて、俺はその場にしゃがみこんでしまった。

 数分遅れで来たバスの中は、最悪なことに、外気温と変わらないくらい寒かった。
「申し訳ありませんね、エアコンが壊れちまってて」
 そう謝る運転手に、文句を言う元気もなく、俺は黙ったまま、最前列の2人がけシートに座り込んだ。
 バスの中に、俺以外の乗客は誰もいなかった。他人の体温がないことで、寒さが更に増す気がする。
 ニット帽だけでなく、食料も持ってこなかったことを、俺は重ねて悔やんだ。何かを口にすれば、きっと少し、体温が上がっただろう。
 けれど、もう、バスが終点に着くのを待つだけだ。せめて、窓の外に広がる雪景色を見ないよう、ぎゅっと目を閉じて。
「次は終点、N駅前です。ご乗車ありがとうございました」
 そして、ついに聞こえたそのアナウンスは、まるで神の声のようだった。
 バスが止まると同時に立ち上がると、一瞬、ぐらりと世界が歪んだ。疲れか寒さか、原因はわからないが、立ちくらみを起こしている。ひと呼吸おいて自分自身を落ち着け、バスを降りると、俺は行く時に缶コーヒーを買った、自動販売機へと直行した。
 やっと、温かいものが飲める。そう思い、小銭を入れて・・・。
「う、嘘だろ!」
 思わず、声が出た。
 温かい飲み物が、すべて売り切れだったのだ。
「マジかよ・・・ふざけんなよ」 
 仕方なく返却レバーを回し、小銭を回収すると、俺はきびすを返し、ふらふらと歩き出した。
 大丈夫、車に乗ったらエアコンが効くから、もう少しの我慢だ。走り出したら、最初のコンビニで、何か温かいものを買おう。
 ああ、やっとここまで帰ってきた。
 雪の上に残る足跡に、街の気配、人の影を感じて、俺は膝から崩れそうになる。
 もう少し、踏ん張れ。
 あと5分も歩けば、車を停めた駐車場なのだから。
 寒いを通り越して、頭がぼんやりしている。手と耳の感覚もない。灰色が・・・きっと、ずっと灰色しか見ていなかったからだ。少しは色があるはずの、街まで戻ったというのに、視界にはモノトーンしか映らない。
 もっと、踏ん張れ。
 車まで5分、そして、そこから運転して2時間。弘樹のところまで、弘樹がいる病室まで。
 足が、重い。力が入らない。
 弘樹を、失うわけにはいかない。
 もっと、もっと、踏ん張れ。
 ・・・・・・?
 一瞬、視界が白くなり、俺は反射的に立ち止まった。
 何だ、今のは?
 そう思った途端、今度はぐらりと足元が揺れる。
 そして。
 暗転する。
 そこからはもう、身体が言うことを聞かなかった。膝が緩み、立っていられない。
 すべての感覚が遠のき、そして、俺は意識を失って、その場に倒れ込んだ・・・。

◇◆◇

 だいすけ!
 大輔。
 大輔!!!
 俺の名前を呼ぶ声が、暗闇の向こうから聞こえる。
 大輔、戻ってこい! そう言っているのは、弘樹だ。名前を呼び続けているのは、母の声。小野田さん、わかりますか、そんな知らない声も聞こえる。
 俺の周りに、いるんだ。
 そう気付き、俺は目を開けた。
「大輔!」
 母と弘樹の声が、重なって流れ込んでくる。
 頭が、割れそうに痛かった。そして、口の中がやたらと苦い。
 ぼんやりとした世界が、やがて像を結ぶと、そこには俺を覗き込む、弘樹と母の顔があった。何故だろう、2人とも、目を真っ赤にして泣いている。
「・・・弘樹。母さん」
 そう呼んだつもりだったが、上手く声にならなかった。
 2人の顔の向こうに、蛍光灯と白い天井が見える。腕につながった点滴の管と、指先に挟まった硬い何か。俺は、病院のベッドに寝ているのか?
「良かった、俺、大輔が起きなかったらどうしようって、ずっと・・・」
 弘樹が泣きながら言い、そして、言葉を失う。
 どうなっているんだ、これは?
 状況を飲み込もうとしても、あまりにも頭が痛くて、上手く考えることができない。 
 俺は、三十七峠まで、薬草茶を買いに行ったのだ。そして、バスでN町に戻ったものの、駐車場までたどり着けずに気を失った。そんな俺を、誰かが病院まで運んでくれたのだろう。
「小野田さん、わかりますか?」
 野太い声が、まとまらない俺の脳味噌に割って入る。白衣を着た、この男はきっと医者だ。隣に、看護師の姿もある。
「わあいあえん」
 わかりませんと答えようとしたが、口が回らなかった。
「でも、僕の言葉の意味はわかってますね」
 医者はにっこりと笑うと、俺の頭上に手を伸ばして、何かに触れた。確認したかったが、とにかく頭痛が酷くて、動けない。
「あなたは4日前、強く頭を打って、この病院に運ばれたんですよ。それから、ずっと眠ったままだったんです」
 はっ?
 何を言っているんだ、この男は。
 それは、弘樹の話だろうが・・・そこまで考えたところで、思考回路が止まった。その弘樹が起きて、立っていて、俺がベッドに寝かされている。
 どうなっているんだ、これは。
 確かめたいけれど、上手く言葉が出なかった。頭が酷く痛い、口の中が酷く苦い。誰か説明してくれ、何なんだ、いったい。
 こんな時なのに、どういうわけか、また意識が遠のいてくる。眠気か、これは。状況をつかみたい気持ちを抱えたまま、俺はたちまち、抗いがたい睡魔に飲み込まれていった。

◇◆◇

 やっと酷い頭痛が治まり、言葉をまともに話せるようになったのは、それから更に2日後のことだ。仕事を休んだという奈々が、本当はいけないのだけれど、面会時間前から病室に来ている。
「大ちゃんはね、仕事中に会社で、階段を踏み外して、思い切り頭を打ったの」
 俺が病院にいる経緯は、彼女が教えてくれた。
「それから救急車で運ばれて、あたしに連絡が来たのね。同時にお父さんにも電話が行って、お母さんと3人で、慌てて駆けつけたんだけど、大ちゃん全然、意識がなくて」
「道路で倒れたんじゃ、なかったのか?」
「何それ、思いっきり会社での話よ。それで、当面は安静と投薬で様子を見るけど、場合によっては開頭手術もあるなんて言われて、ほんとに心配したんだから」
 どこかで、聞き覚えのある話だ。
 結局、頭を打ったのは弘樹ではなく、俺だった。そして俺は、三十七峠の夢を見ながら、ずっと眠っていたということになる。
 実際、弘樹は無駄なくらいに元気で、忙しいはずの仕事の合間に、ちょこちょこ顔を出してくれるのだ。
 どうしようもなく、ややこしい。
「弘樹くんはね、あたしよりずっとたくさん、泣いてたの」
 泣き虫の奈々より、弘樹のほうが?
「大輔が死んだらどうしよう、起きなかったらどうしようって、何回も大泣きしてね」
「あいつ、そんなこと言ったのか」
「でも、わかるよ。弘樹くんと大ちゃんって、あたしより、ずっと長いつきあいだもん。何だか羨ましい」
 そうか、羨ましいか。奈々は一人っ子だから、余計にそう思うのだろう。
 夢の中でさえ、弘樹が起きなかったらどうしようと、俺は気が狂いそうだった。現実が逆だったことに、実のところ、ほっとしてもいる。
「なあ、奈々。俺、夢を見てたんだ」
「夢? どんな?」
「頭を打って入院してたのは、弘樹の方でさ。それで、俺は三十七峠っていう、雪の峠道にあるでかい家に、頭の怪我に効く薬草茶を買いに行くんだ」
「何それ、変な夢」
 子供の話を聞く母親のような表情で、奈々がくすくす笑う。
「で、薬草茶は手に入れたんだけど、帰り道で力つきて、倒れちゃって・・・気がついたら、病院のベッドに寝てるのは、俺のほうだったってわけ」
「不思議だね、頭を打たなきゃ見られなそうな夢。でも、大ちゃんも弘樹くんも生きてるんだから、それはやっぱり、ただの夢だよ」
 奈々にそう言われると、あのリアルな夢が、それほど気にならなくなる。どうやら、彼女の声には、不思議な鎮静効果があるようだった。

 それからの俺の回復は、極めて順調だった。
 頭痛は日を追う事に軽くなり、3日後には歩行の、そして、1週間後には退院の許可がおりた。
 明日、俺はやっと家に帰れる。
「会社の店長さんから、伝言。怪我人なんて足手まといだから、ちゃんと治してから出てこい、復職したらこき使ってやるから、だって」
 病院での、最後の夕飯につきあってくれた奈々が、笑いながら言った。
「まったく、店長は相変わらず口が悪いな」
「でもいいじゃない、要するに、ちゃんと治るまで休んで構わない、ってことでしょ?」
「まあな。いい人なんだけど、素直じゃないんだよ」
 けれどとにかく、俺には戻る場所がある。奈々と暮らす家、生活を立てるための職場。それは、なんて恵まれたことなのだろう。
「そういえばね、昨日、琴美ちゃんとLINEしてたんだけど」
 不意に、奈々が話を変えた。
「大ちゃんが入院して、3日目くらいに、弘樹くんが朝帰りしたって言うの」
「何だそれ、仕事で?」
「うん、その時は弘樹くんも仕事って言って、琴美ちゃんも納得したんだって。でも、今思うと、その頃は大きな事件も起きてないし、徹夜するほど忙しいはずもないから、何だったんだろうって」
 確かに、少し気になる話ではある。
「でもさ、浮気とか、そういうことではないだろ。弘樹、琴美ちゃんにすっげえ惚れてるし」
「うん、あたしもそう思う。でもちょっと、謎だよね」
 奈々はそこまで話すと、そろそろ帰るねと言葉を足し、立ち上がって上着を手にした。彼女と話していると、あっという間に、面会の終了時間が来てしまう。
「ああ、明日よろしくな」
「うん、9時に迎えに来るから。やっと、大ちゃんが帰ってくるんだね。良かった・・・」
「何だよ、奈々、泣くなよ」
 涙ぐむ彼女をエレベーターまで送り、独りで病室に戻ると、今度は俺の方が泣きたくなった。
 やっと、家に、帰れる。
 奈々にも弘樹にも、両親にも、きっと店長や同僚にも、俺は心配をかけたのだろう。それは、とても申し訳ないけれど、幸せなことでもある。俺を心配してくれる人が、この世界で息をしているのだから。
「さて、少し片付けるか」
 切り替えるために独り言を呟いて、俺は戸棚に置かれた紙袋を取り、底を広げた。明日の9時には奈々が来るから、今のうちに、使わない荷物を片付けてしまおう。
 コップと歯ブラシは、まだ使う。ウエットティッシュ、これもまだ必要か。替えのパジャマはもういらないから、紙袋行きだ。
 そういえば、戸棚の引き出しに、何が入っているのだろう。入院に必要なものは、奈々と母が揃えてくれたので、俺は自分の病室に何があるのか、実はよく知らないのだ。
 引き出しの中には、メモ帳と予備のティッシュの箱、ハンドクリームが入っている。こいつらももう、紙袋でいいな。
 そう思い、中身を全て取り出した・・・その時。
 引き出しの、奥に。
「これ、これって!」
 思わず、大声を上げてしまう。
 何で、どうして。
 そこに、五角形に折られた、茜色の薬包紙があったのだ。
 1包だけ、まるで使い残りを隠すように、ひっそりとしまい込まれている。
 それは、夢の中の三十七峠で、俺が買った薬草茶の薬包紙と、まったく同じものだった・・・。

 俺は、頭を打って、どうにかなってしまったのだろうか?
 どんなに考えても、わからない。
 茜色の薬包紙は、実際に今、俺の手のひらにある。けれど、三十七峠は夢の話だ。頭を打つ前に、俺は薬包紙を見たことがあり、それがたまたま夢に出たのだろうか。
 しかし、どこで見た?
 ぬるま湯に溶いて、それを綿に吸わせてから、口の中に塗るようにして、あげてください。時間をかけて、ゆっくりとあげてくださいね。
 夢の中でさおりが言った、薬草茶の与え方を思い出す。そういえば、俺が目覚めた時、口の中がやけに苦かった・・・。
 次に思い出したのは、先程の奈々の話だ。大ちゃんが入院して、3日目くらいに、弘樹くんが朝帰りしたって言うの。夢の中で、俺が三十七峠に行ったのは、弘樹が意識を失ってから、確か3日目だったはずだ。
 妙な仮説が、頭の中で像を結ぶ。
 俺が頭を打ってから3日目、弘樹が三十七峠に行き、さおりから薬草茶を買った。
 そして、眠っている俺の口の中に、一晩かけて薬草茶を塗ってくれたおかげで、俺は目覚めた。
 馬鹿な想像だ。弘樹の経験を、俺がリアルタイムで夢に見る? そんなこと、あるはずないじゃないか。
「やっぱり、俺、まだ普通じゃないのかな」
 もう一度、独り言を呟いて、俺は手のひらの薬包紙を握りしめる。それは、ただの紙のはずなのに、何故かほんのりと温かかった。

〈了〉

この小説は、しめじさんの企画 #写真から創る
参加させていただいております。

※この物語はフィクションであり、登場人物、場所等は、全て架空のものです。

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