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小説|三十七峠〔Part3〕

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 やがてたどり着いた、平屋建ての家は、俺が今まで見た、どの家よりも大きかった。
 門はなく、その代わりに、除雪された雪が積み重なって、道路と敷地の境目を示している。玄関の前の外構は、新たに降った雪に覆われて見えないが、靴底の感覚から、コンクリートが敷いてあるとわかった。
 雪が乗った屋根の端から、瓦の黒い色が、わずかに顔を出している。外壁は薄い灰色、玄関の引き戸は黒。その家は、まるで景色のような無彩色だった。
 ここで、いいんだろうか。恐る恐る白い表札を覗くと、黒い文字で「薬茶屋」とある。分かれ道で見た道標を思い出し、俺は思い切って呼び鈴を押した。
 家の中で、誰かが動く気配がする。バスを降りた後、ずっと感じることがなかった、自分以外の生き物の気配。
「どちら様ですか?」
 そして、女性の声とともに、引き戸が開いて。
 ・・・琴美ちゃん?
 出てきた女性を見て、俺は一瞬、言葉を失った。彼女を、弘樹の婚約者と見間違えたからだ。
 しかし、実際はそんなはずもなく、そこにいる彼女の顔は、琴美とはさほど似ていなかった。肩までの真っ直ぐな髪と背格好が、同じように見えただけなのだろう。
「あの、小野田、だ、大輔と申します」
 唇と頬がこわばって、自分の名前もスムースに言えない。
「こちらで、頭の怪我に効く薬、買えるって聞いて・・・あの、譲って、いただけないかと」
「歩いていらっしゃったんですよね? こんな時期に?」
「はい、あの、急ぐんです。俺の、いや、僕の弟が怪我で」
「まずは、お上がりください」
 彼女はしどろもどろな俺の話を遮り、左側に延びる廊下へと、俺を案内した。慌てて長靴とダウンジャケットを脱ぎ、彼女の後に続きながら、マフラーと手袋も外す。
 古い家だ。砂壁というのだろうか、ざらざらした壁と、磨きこまれて飴色になった床。彼女は、廊下のいちばん手前にある障子を開け、広い和室へと俺を通した。
「寒かったでしょう? どうぞ、炬燵に」
 その言葉に甘えて、赤い炬燵布団を上げると、ふわりと炭のにおいが漂う、昔ながらの掘り炬燵だった。脚を入れると、電気炬燵とは比較にならないほど暖かい。
 あまり、物がない部屋だった。テレビもエアコンも、カレンダーの類もない。炬燵と座布団の他にあるのは、大きな石油ストーブと、古い立派な茶箪笥、そして白い電気ポット。
 壁にかかっているものは、古びた縦長の振り子時計だけだ。時間は、11時少し過ぎを示している。
 バスに乗ってからここまで、2時間もかかったのか。
「私は、やざやさおり、と申します」
 彼女は茶箪笥から急須と湯呑みを出し、お茶を淹れながら、そう名乗った。
「やざや、さん」
「くすりちゃや、って書いて、やざやって読むんですよ」
 ・・・え?
 表札と道標に書かれていた、3文字の漢字。薬茶屋。あれは、薬茶の店という意味ではなく、苗字だったのか。
 頭を殴られたような気分で、俺はさおりに気付かれないよう、ため息を静かに逃がす。薬茶の店では、ない?
「苗字って聞くと、皆さんがっかりしますけど、ここで薬草茶は販売しています」
 そう言いながら、さおりは俺に湯呑みを差し出した。
「ありがとうございます、いただきます」
 薬草茶が、ある。
 その事実と、ほうじ茶の熱さに、俺の体温が一瞬、きゅっと上がった。
 薬草茶が、ある。
 弘樹を、呼び戻せるかもしれない。
「お話を、お聞かせ願えますか? 小野田さんが、薬を飲ませたい方の状態について」
 さおりは、自分もほうじ茶で口を潤すと、そう言いながら、俺の目をぐっと覗き込んだ。

 どこからどこまで話せばいいのか、それがわからず、俺は弘樹の現状を、そのままさおりに伝えた。
 頭を殴られ、意識が戻らないこと。今のところ安静にして様子を見ているが、今後、どうなるかわからないということ。そして、来年、結婚を控えていることも。
「それなら、弟さんは今、すごく幸せな時ですよね。仕事で怪我をしたなんて、お気の毒に」
 やさしい人なのだろう、さおりは俺の話が終わると、真っ先にそう口にした。
「私達の薬草茶は、春から秋までの間に材料を集めて、冬に調合するものです」
 そして、話が本題に入る。
「祖母と母が調合していますが、2人とも医者でも薬剤師でもないし、薬草茶自体も、医薬品ではありません」
 この話は、経験者のブログに書かれていたので、俺も事前に理解しているものだ。驚きはなかった。
「ですから、絶対に効くという保証もありません。効く時は効く、駄目な時は駄目。それをご了承いただけるのなら、販売させていただきますが」
 胸の奥に押し込んでいた、小さな不信感が、ちらりと顔を覗かせる。頭の怪我に効く薬草茶など、平常時に聞いたら、きっと眉唾ものだと思うだろう。
 でも。
 すがれるものがあるなら、何にでもすがりたい。
「了解しました。買います。買わせてください」
 俺の返事を確かめると、さおりは茶箪笥の下段から、大きくて平たい漆塗りの箱を取りだした。
 黒地に金の蒔絵で、羽ばたく二羽の鶴が描かれた、とても美しい箱だ。さおりがその蓋を開けると、五角形に折られた、様々な色の薬包紙が、たくさん収められているのが見えた。
 何色くらいあるのだろう。青、水色、銀鼠色・・・いや、名前を知らない色のほうがずっと多い。さおりはその中から、茜色の薬包紙を3包取り出し、俺の前に置いた。
「中身は薬草の粉末です。いろいろな調合がありますが、お話の内容だと、これが一番いいかと」
 ひとつを手に取ってみると、あっけないほど軽い。
「本当はお湯に溶いて、お茶にして飲むのですが、弟さんは無理ですよね」
「そうですね、意識がないんで」
「じゃあ、ぬるま湯に溶いて、それを綿に吸わせてから、口の中に塗るようにして、あげてください。できるだけ少ないぬるま湯で、できるだけ濃いお茶を作ります」
 なるほど。それなら、飲まなくても摂取できる。
「時間をかけて、ゆっくりとあげてくださいね。間違っても、お茶が喉に流れることのないように」
「わかりました」
 3包の薬草茶は、びっくりするほど高額だった。でも、もう、後戻りはできない。言い値の費用を支払い、薬包紙を入れた紙袋をポケットにしまうと、俺は店を後にした。

※三十七峠〔Part4〕へ続く

この小説は、しめじさんの企画 #写真から創る
参加させていただいております。


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