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『テーマ』とは何か?

 本記事のテーマは、「テーマとは何か?」である。

 辞書をひもとけば、テーマとは以下のようにある。

テーマ[Thema〔ドイツ〕]
[名]
(1)主題。題目。また、中心課題。
「家族をテーマにした小説」
(2)音楽の主旋律。主題。

明鏡国語辞典MXより

 ここで筆者が取り扱いたいのは、(1)のほうだ。小説や映画、マンガやアニメ……「物語」が持つテーマである。しかしながら、これが、なかなかの難物だ。

「主題。題目。また、中心課題」と言われて、「なるほど!そういうことか!!」と腑に落ちるだろうか? 筆者は、ならない。

 人は「あの作品のテーマは高尚だ」などと賞賛する。「素晴らしいテーマの作品だった」などと感想を述べる。

 同時に、「テーマなんてコンテンツの善し悪しと関係ない」と批評することもあれば、「テーマなんて一言にまとめきれないから作品を創るんだ」と口にするクリエイターもいる。

 ストーリーテリングをロジカルに捉えるハリウッドでは、テーマをより具体化した「プレミス」なる概念があるらしいが、「プレミス」の定義自体、曖昧だとも言う。

 果たして、テーマとは何者なのか?

 物語ばかりを凝視していても、テーマの正体は一向に分からず、その実在すら疑わしくなるばかり。そこで、まずは物語と対になる存在を並べて、それぞれのテーマの扱いを比較するところから手をつけよう。

 すなわち、科学である。

 テーマとは、物語と科学において、全く真逆の扱いを受ける。

 物語におけるテーマは、作者が自由に設定することができ、また受け手によって変容する。直接に語らぬことが好まれ、間接的であいまいなものとなる。主観的な存在、と言いかえることもできるだろう。

 努力・友情・勝利がテーマだとしても、主人公が「努力を重ねて、友情を大切にしたから、勝利したぜ!」などと声高に叫び出したら、興醒めもいいところだ(ギャグとして見れば面白いかもしれないが、そのような受け取り方こそ、ひねった……すなわち「間接的な」ものだ)

 科学におけるテーマは、先行研究や実験結果、組み立てた理論によって導き出される。誰が見ても同じ主張……客観性が求められる。見る人によって変わる、などということは論外であり、科学論文や学術書においてテーマは直接的に明示される。

 科学の客観性を担保するため、査読や追試というシステムが存在し、捏造は忌避され、もしも発覚すれば厳しく糾弾される。

 物語というものを考えるうえで、対となる存在である科学との比較は、下記の書籍でも触れられている。


『物語が世界を滅ぼす』において、極めてシンプルな物語の構造が提示されている。「共同体」「悪役」「英雄」の三要素だ。「共同体」は、「悪役」によって危機に陥る。この「悪役」を「英雄」が打ち倒し、「共同体」は救われる。これが基本形だ。

 そして筆者は、テーマについて考えるため、二つの要素を追加したい。

 どのような物語であれ、筆を執った「作者」が存在し、それは受け手である「読者(媒体によっては視聴者)」に届けられる。

 すなわち、内には「共同体」「悪役」「英雄」の三要素、外には「作者」「読者」の二要素、あわせて五要素が物語を取り巻くととなる。

 さて物語の構造が、テーマとどのように関わってくるのか?

 先に述べたとおり、物語におけるテーマを直接的に語ることは好まれない。テーマを如何に扱うか、その実践的手法はクリエイターの数だけ存在するだろう。

 ここでは、ベテランライトノベル作家である榊一郎氏の書籍を参照したい。


『キャラクター創造論』において、あるテーマを描写する場合、複数のキャラクターを使って対比するテクニックが紹介されている。

 たとえば「努力をすれば報われる」というテーマを描こうとする場合、主人公の周囲に「努力をせずに報われる」や「努力をしたが報われない」など対比できるテーマを内包したキャラクターを配置していく。

 矛盾するテーマを持ったキャラクター同士のやりとりを通して、作者が描きたいテーマを間接的に表現するわけだ。

「努力をすれば報われる」というテーマを表現するのならば、主人公は努力を重ね、努力に対して異なる主張を持つ登場人物たちとの紆余曲折を経て、最終的に勝利するだろう。

 これにてテーマと言う存在の正体は暴かれ、どう扱うべきかも判明した。めでたしめでたし……となるだろうか?

 一人の作者が物語を完成させるまでは、これでいい。

 だが、多くの物語には、まだ先がある。読者のもとへ届けられ、読まれる(あるいは聴かれる、観られる)のだ。

 ここに至って、物語の外側を取り巻く「作者」と「読者」の二要素が問題となる。「読者」は、「作者」の言わんとすることを素直に呑み込まない。「読者」は「作者」と異なる価値観を持ち、「作者」の主張とは異なる感想を抱く。それも、「読者」の数だけ多様に。

 Vtuberやライター、ときには音楽や漫画家などマルチな活動で名高いマシーナリーとも子氏は、次のような記事を書いている。


 メタ的に言えば、物語は「作者」単独では完成しない。「読者」という第三者のもとへ届き、読まれ、聴かれ、観られ、咀嚼されて、ようやく本懐を果たす。このとき、「読者」はこう呟くだろう。

「この物語、僕は○○だと思ったね」

 物語は、「作者」単独では完成しない。「作者」と「読者」の双方が存在して、初めて完成する。そして、「作者」は物語の内部にいる「共同体」「悪役」「英雄」は自由とできても、第四の壁の向こう側にいる、見ず知らずの「読者」に対して、直接の干渉は不可能だ。

 ここに物語の持つ困難さと奥深さ、そして豊かさがある。「作者」の主張、それを間接的に語るべく「共同体」「悪役」「英雄」に仮託されたそれぞれのテーマは、また別の主張を持つ「読者」とぶつかり合うことで、全く未知の『真のテーマ』と言うべき概念へと昇華される。

 マシーナリーとも子氏が書き記したとおり、物語と受け手の一期一会によって、『真のテーマ』は、星の数のごとく無数に産まれ出る。

 無論、すべての物語がハッピーエンドではないように、二物衝突によって産まれた『真のテーマ』のせいで、「作者」の本来の主張が忘れ去られ、作品は誤解、酷評、あるいは無視されて終わる……かような不幸も、それこそ無数にあるだろう。

 では実践的な視点から、このメタ的バッドエンドを避けるため、「作者」にできることはあるのか。次の二点が、ヒントとなるかもしれない。

 まず第一に、人間という生き物は「返報性」という性質を持つ。すなわち、否定されれば否定し返したくなり、肯定されれば肯定し返したくなる。

「読者」として想定される人々を否定するようなテーマは、必然、反発を招きやすくなる。最終的に滅ばされる「悪役」のテーマであれば問題ないだろうが、「英雄」や「共同体」のテーマとして語る場合、その「物語」に忌避感を抱かれる可能性は高いだろう。

 では、「読者」を肯定するような……ひねくれた言い方をするならば、ゴマをするようなテーマしか受容されないのか?

 ここに、第二のポイントがある。

 先述した『物語が世界を滅ぼす』によれば、物語の登場人物、特に多くの場合、主人公をつとめる「英雄」は、「変容」する存在である。

 この性質を利用して、物語のスタート地点では主人公に、「読者」が肯定や共感しやすいテーマを持たせ、徐々に「読者」に馴染みがない、しかし「作者」が主張したいテーマへと「変容」させていけばいい。

 この「変容」の手法は、無論、悪用することが可能だ。広い意味での物語に含まれる詐欺、カルト、陰謀論は、まさにこの特性を悪用している。『物語は世界を滅ぼす』は、悪しき物語の危険性と、その排除の困難性を記した論考でもある。

 さて、そろそろまとめに入ろう。

 テーマとは何か? 

 テーマとは、ごく単純に「その作品において肯定あるいは否定されるトピック」に過ぎない。そこに、善悪や貴賤は関係ない。

「戦争反対」がテーマとなるように、「戦争賛美」もテーマとなる。大局的な「政治」を扱ってもいいし、個人的な「生活」に関わる事柄を据えてもいい。

 マシーナリーとも子氏は、「寿司」をテーマに、センス・オブ・ワンダーの満ちた見事な作品を描き上げた。


 無論、作者が嫌悪する、あるいは関心のないテーマを扱うことは難しいし、それは読者にとっても同様に受け入れがたい。

 それでいて、「物語」の「変容」と言う性質と組み合わせることで、一見、受容しやすいテーマを難解なテーマへと誘導することができる。すなわちテーマは「物語」の「手綱」となり、「物語」とそれに巻き込まれた「読者」の方向性の制御が可能になる。善くも、悪くも。

 同時に「物語」に宿ったテーマは、「読者」の内部に取り込まれ、「作者」も想像しなかった何者かへと「変容」する。「作者」と「読者」、それぞれのテーマが、第四の壁を超えて衝突し、『真のテーマ』が産まれ出る。

 一人の「作者」と無数の「読者」の持つテーマがぶつかり合い、夜空に輝く星のように数え切れない『真のテーマ』が浮かび上がる……この多様性の具現こそが、理想の「物語」の有り様なのかもしれない。


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