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“過剰表現者”という視点で見た映画『月』と相模原障がい者殺傷事件

 4年ぶりぐらいに会った大学の親友と映画『月』を見に行った。『月』は2016年に神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員であった植松 聖(うえまつ さとし、事件当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件をモデルにほぼ実話に寄せて、犯人と同僚、同僚のパートナーの心の模様の移り変わりを描いている。

 「生産性のない障害者は安楽死させればいい」この言葉は当時ものすごくセンセーショナルを引き起こし、過激な言葉にかき乱されるように僕の心も、世の中も騒ぎ、しばらくしてすーっと記憶の底に沈みこんだのを今でも覚えている。

 さて、映画を見て、ぼくの心のわだかまりから沸々と湧いてきてしまったのが“過剰表現者”という言葉だった。

この“過剰表現者”は誰のことか。実は映画に出てくる登場人物すべてである。植松聖がモデルのさとくん。施設職員の坪内陽子、堂島洋子、洋子の夫の堂島昌平。そして、施設に入れられている知的障害のある入所者もである。そして、見終わったあと、しばらく経ってはっと「ぼくももしかすると過剰表現者なのかもしれない………」と薄っすら寒気を感じてしまった。

 坪内陽子、堂島洋子、堂島昌平、さとくん。この4人に共通するものは、3人とも「“芸術”を志しながらうまくいかず、挫折した経験」を持っていることだ。この映画でいう“芸術”とは、坪内陽子と堂島陽子の場合は小説家。堂島昌平はバーチャルゲーム作り、そしてさとくんは画家だ。

 それぞれある程度の才能を持ちつつも、陽子の場合は書きあぐねてなかば自暴自棄、「世の中は見たくない現実を隠す」と厭世気分に浸っている。洋子は処女作で大賞を取り、売れたものの、その後何を書きたいのかわからなくなり、小説のネタはないかと投げやりな気持ちで障がい者施設に飛び込んだ。昌平は自室にこもり、作品作りに没頭するも、なかなか芽が出ず久しぶりに働いたバイト先の同僚から「オマエ、そんなもん作ってんの?バカじゃねーの」と罵倒される。

 芸術を志す人は自分に言い訳ができない。うまくいかなければ、それはすべて自分のせいだ。物書きも書いてみたものの、本当は自分の書くものには中身なんて全然なくて、ただのしょうもない欲に駆られて書いてるだけじゃないのか・・・という不安がつねにつきまとっている。絵描きだって、ゲーム作家だって、本当は自分なんて才能なんてなく、ただ独りよがりで作っている、という虚無感に囚われることが時おりあるんじゃないだろうか。

 この虚無感は時おり「じゃあ本質って何なんだ?」という問いに駆り立てられ、過剰表現者の道に突き進む。

 本質—人間の本質。命の尊厳とは何か。人間の価値とは何か。命ってなんですか? 人ってなんですか………..

ぼくもこの登場人物たちに共鳴してしまった。ぼくはずっと研究者を目指していた。研究テーマを決め、論文を書く。でも、研究テーマが何度もぶれてしまい、論文の内容もまだまだ浅いと感じてしまう。人からは「河合さんの論文ってさ~中身薄いよね」的なこともぼかし気味で言われてしまう。坪内洋子に憧れ、小説を書きあぐねてなかば自暴自棄の陽子も一度は成功した洋子の東日本大震災を題材にした処女作について「洋子さん、現場に行きました?行ってないですよねぇ。読んでも全く引き込まれない。中身薄いです」と散々に罵倒してしまう。

 そう言われると作者は言い訳ができない。言い訳したら最後、それは自分が生み出した作品、ひいては自分自身を見下してしまうからだ。

 だから、過剰表現者へと向かう。ぼくのいつものFacebookのしょうもない投稿を見て「うわっ!この人意識たかっ!」と思われた方もいるだろう。ぼく自身、夢も挫折し、恋人もおらず、独り身で、これからどうやって生きていこうかと考えに浸ることがある。考えれば考えるほど、自分って中身ねーなと気づいてしまう。

 みんな、だましだまし補い合って生きている。恋人や家族がいる場合はお互いに承認し合えるし、組織で働くことで役割や存在価値を得ている。だからこそ、自分の存在価値だの、生きる意味だの、自分は役に立つつかだの、そういう答えの出ない病に臥せってしまうような問いは考えなくて済む。

 最初のほうで入所者も過剰表現者だと述べた。山奥の施設に閉じ込められ、狭い部屋に隔離され、ある人は光があると反応してしまうからと、窓を厚紙で覆い隠される。閉じ込められた人は必死の姿勢で、“奇声”と周りからは決めつけられる声で叫び、暴れ、自分を傷つけ、ベッドに縛りつけられても何かを強く訴えかける。

 施設というのは地域からも世間からも隔絶され、その存在すら社会から忘れ去られる。ないものにされる。そうなると、どうやって自分の生きているんだ!ということを表現すればいいんだろう。自分の声を受け止めてくれる人、存在を承認してくれる人は誰もいない。孤立無援だ。

 入所者たちは人間の本質を訴えかける。陽子と洋子とさとくんは本質を過剰に求めつつもそれに怯え、生産性や中身、現実という具体物を拠り所にし、それにさらに執着する。

 入所者と3人が出会うとき。それは3人が入所者の人たちに否が応でも共鳴してしまうときだ。共鳴してしまうほどにその声は痛いところ、暗部を突き刺し、またかわいそうにという気持ちになる。

 声にならない心の暗部がえぐり出されるような作品だった。

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