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『VIVANT』と『半沢直樹』の不吉さ

VIVANTと言い、半沢直樹と言い、なんだか時代の変化についていけない高度成長期の“活躍した男性”の亡霊たちが「昔のニッポンは素晴らしかったんだぞ」「品格においてもアジアのなかで日本が一番だったんだ!」と必死でしがみついてるような感じがしてちょっと厚かましかった(笑)

 モンゴルに対する態度も、ああああやって昔のキリスト教国も世界を植民地化していったのだなと思いまちた。「自分たちこそ品があって、優れた精神である」というように。

どちらのドラマにも共通しているのは、“頑固”と言ってもいいぐらいの揺るぎない正義感をもつ男性主人公と“内助の功”によってその男性を支える女性の存在である。

半沢にせよ、VIVANTにせよ、汚れちまった資本主義を浄化して、“純粋な”資本主義をもう一度作り直すんだという正義感に取りつかれている。この姿はかっこよく見えるかもしれないが、その実狂気の沙汰だ。彼らは資本原理主義者で、それは信仰に近い。

信仰となれば、もうそれは疑う余地なきもの、いや疑うことは冒涜に値するのだ。

つまり、現代起きている様々な社会問題は“腐れ切った資本主義”のせいなのであり、だから俺様が腐れ切った者どもを退治して“純粋資本主義”を取り戻させてやる、といきり立っているのだ。この純粋性は、そのまま“純粋な家族”、“純粋な性規範”に移し変えられ、戦場で戦う企業戦士、銃後を守る女性や妻という戦時体制ができあがる。

・・・怖い。

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