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得をすることだけが、意味のあることではないのだから

音楽を言葉にして伝えるって、なんて無謀で無意味なんだろうと思うことがある。音楽は自分が好きなように聴くのが一番だし、音楽の良さを伝えるには、相手にも聴いてもらうことが一番良い。

私に誰より優れた言語化能力や描写力、誰にも真似できないような音楽センスがあるなら、言葉にする価値もある。でも残念ながらそうではない。

11月の頭から25個も音楽に関するnoteをやってきていまさら何をとも、ま~た当たり前のこと書いてるなあとも思われそうだけど、あと5日やり切るために書かせてほしい。

ミュージシャンは、言葉にできないことだから音楽にしている。音楽で表現されていることを全て、言葉にすることは不可能だと思っている。音楽に表現されていることを言葉に直すのは、せっかくきれいな球体に磨きあげられたものを、安いノコギリで乱暴に切り取って相手に渡すような気がしてならない。

高校の部活の先輩の話が忘れられない。話の流れで私が好きなバンドの話になった。新曲良いんですよ、よかったら聴いて下さいよ。みたいな。

しかし、先輩の中学の頃の親友が、私と同じバンドがものすごい好きだったらしく、親友があまりに好きなもんだから、反動で先輩はそのバンドがあんまり好きではなくなってしまったらしい。

強い想いで繋がっていくのではなく、想いが強すぎるがゆえに途切れてしまうことが、恋愛以外にもあるんだと思った。それがショックで、ずっと引っ掛かっていた。だから今になってこんなことを書いているのかもしれない。

きれいな美しい球体を切り取ったとしても、元に戻したら切れ目がわからなくなるくらい薄くて鋭い刀が欲しい。もしくは切り取った跡さえも、音楽を引き立てる模様になるような見事な切り方ができるようになりたい。

音楽について誰かが書いた言葉に触れて、曲やミュージシャンに興味を持つことはよくある出来事。言葉だけじゃない。ジャケットのアートワークやミュージシャンが身にまとうファッションだってそう。

音楽の周りにあるものを先に好きになって、そこから音楽を聴き始める。もしかしたらその周りの要素がなかったら、この音楽を私は好きにならなかったかもしれないな、なんて思うこともある。

ここのところ音楽のことを毎日毎日言葉にしているもんだから、自分の至らなさと音楽を好きな気持ちばっかりに目が向いて、視野が狭くなっている。

でもずっと引っ掛かっていたことに向かい合ういい機会だろう。このまま進めてしまおう。

音楽、言葉、絵、ほかにも人間の表現というのはさまざまある。どれが優れているかとか、主従関係があるとかいうことはなく、お互いにそれぞれが足りない部分を補い合う関係にある。

言葉は、伝えたいことを正確に伝えることは得意だけれど、受け手のもとで理解するまでに少し手間と時間がかかる。

それに比べて絵は、色や形によってパッと見で多くの情報を伝えることができるが、視覚以外の情報を直接的に伝えることはできない。

そして音楽は、聴覚情報を通じて抽象的なイメージや感情を伝えることはできるけれど、文字や絵のような具体的な情報を伝えるのはあまり得意ではない。

それぞれに得意不得意があって、それぞれに素晴らしいところがある。お互いの不得意を補い、得意と得意を掛け合わせようとするのは人間の良いところだ。そうやって一生懸命、人は心を伝え合う。

だから歌詞のある音楽も歌詞のない音楽もあり、CDにも本にもこだわりのジャケットがつきものなのだ。イベントのポスターには効果的なビジュアルを絵や写真で、日時や開催場所などは文字で載せる。

うん、だとしたらやっぱり、無謀でも無意味でも、私は言葉を研いで、切り口をあれこれ試行錯誤しよう。音楽に限った話じゃない。私が見ている世界が、どんなに美しい完璧な球体をしているように見えても。輪郭すらわからないほど複雑怪奇な形をしていても。

音や絵と、ときには手を携えることもあるだろう。寄りかからず、手を携えるためには、できるだけ広い視野と広い感性を持とう。

新しい音楽に出会うため、背中を押してくれる言葉があった。そして、言葉を発するために背中を押してくれる音楽もある。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「マシンガンと形容詞」。

「だからノーだってイエスだって 胸を張って言おう」「それが愛だって希望だって 胸を張って言おう」「今日も I don't knowで世界を打ち抜く言葉を」。自分の意見を言葉で表明しよう、と背中を押す歌詞が所せましと詰め込まれている。

「マシンガンと形容詞」の真ん中の「と」は並列の意味なのか、対比の意味なのか。つまり「マシンガンと同じ」と歌っているのか「マシンガンとは違う」と言いたいのか。マシンガンは善と悪、どちらの象徴として歌っているのか。

動詞、名詞、代名詞、形容詞、助詞、接続詞……。学生時代、覚えるのに苦労したたくさんの言葉の分類。そのなかで一つ、タイトルに形容詞を選んだのはどうしてなんだろう。

形容詞は、物事の状態や性質を表す言葉。大きい・近い・嬉しい・痛い・悲しい・空しいは全部形容詞だ。

「形容詞」をどういうものだと私たちに伝えたいんだろう。曲に出会ってから10年ほど経つが、一向に答えは出ないし、思うことはくるくる変わる。

少し前まで、毎日のように「売上!利益!アクションベースで考えろ!」と言われて働いていたときには「動詞がない意見は意味がない。形容詞は意味のないものの象徴なのかも」なんて思っていた。

でも、そこから一歩離れた今、嬉しい・辛い・痛いが、全く意味のないものだなんてことは、絶対にないよなあと思った。

で、「~なあと思った。」では終われないのでちょっと調べてみたら、曲を書いた当時、アジカンのボーカルである後藤正文さん(以下ゴッチさん)のブログが出てきた。

現代を生きる我々は貨幣的な価値からは逃れられないし、そこから逸脱してしまうのも何か違う。それでも、心のどこかで、等価では交換出来ない何かを持っていること、それを誇りに思う。それはとても曖昧な言葉でしか言い表せないかもしれない。それでも、その曖昧な何かを言葉にし続けてきた歴史を尊敬したい。そして、これからも、言い表しようのない何かを、敢えて言葉で言い表そうと私は努める。それが先人の歴史に続くということだ。

Vo.ゴッチの日記 マシンガンと形容詞

私が10年間うんうん考え込んでいたことがもうそのまま全部書いてある。その上で、言葉にすることへの揺るぎない決意を表明している。先人というのは本当に偉大だ。当時読んだはずなんだけどなあ。

そしてこの日のブログを引用して、アルバムをリリースした少し後に公開されたアルバム全曲解説では、こうも述べている。

自分たちの(これは人類って意味で)発明したもので、一番クソなものを抽象化してくれるモノの名前としての言葉ってなんだろうって考えてたんです。それでいて、俺が「クソ」と呼ぶ本能的なフィーリングは根源的なものなんですけれど...。「マシンガン」は、それらの絶対的な代表ではないかもしれないけど、そういうモノのひとつだと思います。そして、その真逆にある発明はなんだろうって考えたんです。それは「言葉そのもの」なんじゃないかって思うんですね。そして(ひとまず言葉とは何かっていう哲学的な命題はポケットにしまって)、その言葉の中でも「比喩」が持つ力が一番強いと思っています(クソなもんをクソだと表せるのも、言葉の持っている大きな力だ)。何かを形容するということ。だから、詩や小説や批評や、言うなら「文学」ってことですね。

「マシンガンと形容詞」はつまり、人間のことです。

Vo.ゴッチの日記 『ランドマーク』全曲解説 「マシンガンと形容詞」

なんだ、全部書いてあるじゃない。じゃあこの記事の、ブログの引用から前の部分は全部いらないのかも知れない。全部消しちゃって「こんな曲があるよ~作詞者はこんなことを言っているよ~」だけで良いのかもしれない。より効率的に、中身のある情報を得たくて行き来するWeb上で、やっぱり私のやっていることは無意味なのかもしれない。

でも、作った人が言ったことをそのまま「答え」と受け取ってそれで得したような気になって、それだけではなんか違うよ、と思う。うんうん考え込んできた私の10年が、全く無意味な遠回りとは思わない。うんうん考え込んできたから、ゴッチさんが10年前に書いた言葉をここまで理解できたのかもしれなし、まだまだ考え込まないと完全に理解できていない感じもしている。

ここで書いたものを消したら、自分の遠回りを自分で否定することになるような気がする。だから、消さない。もうこのまま投稿する。私は言葉を研ぐ。全身全霊を注いで切り口を試行錯誤する。広い視野と感性を持つ。

「アイデンティティなんてものは 鬱陶しい 『探せ』なんて偉そうに言うな」。


コンビニでクエン酸の飲み物を買って飲みます