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東京卍リベンジャーズの最終回を迎えて何を思うか。過去の不良漫画との対比を添えて。

「東京卍リベンジャーズ」が最終回を迎えた。最終回のあり方については賛否があったようではあるが、大人気の漫画だということは誰もが認めることだろう。
かくいう私もある時、友人からコミックスを貸してもらって一気に読んで以来、すっかりファンになった。


私にとって不良漫画の原点は「ろくでなしブルース」だ。大好きな作品でこれまでの人生で何度も読み返した。
そして、それとほぼ同時期に連載されていた不良漫画である「今日から俺は」も昔よく読んでいた。数年前に映画になっていたのでご存知の方も多いと思う。


東京リベンジャーズを読んでみて、好きだった過去の不良漫画を思いを馳せ、その作品を比べることで時代による不良のあり方や、社会の変化に気付いたので書いてみたい。


まず「ろくでなしブルース」の不良は疑問の予地なくかっこいい存在のように書かれている。強い不良は憧れの的という素直な価値感の世界である。ザ昭和である。

「今日から俺は」は不良じゃなかった高校生が不良になる話である。
「ろくでなしブルース」の主人公の前田大尊が登場時からまじりっ気なしの不良であったのに対して「今日から俺は」は転校を機に不良になる。

主人公の三橋と伊藤にとって不良になってみたい理由は目立ちたいからである。やはり根底に不良は目立つしかっこいいという価値観がある。これは同年代の作品の「ろくでなしブルース」と共通するところである。


それらに比べて「東京卍リベンジャーズ」の不良感には隔世の感がある。

それは「東京卍リベンジャーズ」には不良はださいという価値観があるからだ。

東京リベンジャーズの登場人物たちは、「不良がかっこいいという時代を取り戻したいんだ」といった主旨のことを何度も言う。

これは現在の社会が不良がださいと見ていることの表れだろう。

徹頭徹尾、強い不良はかっこいいと書かれていた「ろくでなしブルース」や、かっこいい不良になりたいという「今日から俺は」との不良感とは大きな隔たりがある。


次にこの3つのマンガを比べて感じたのは、 不良と家族の書かれ方における、社会の変化である。 

「ろくでなしブルース」の主人公である前田大尊の実家はお寺で、作中ではヤクザのお兄さんと二人暮らしをしている。こう書くとずいぶん変わった家族に感じられる。しかしこの家族は家族としての機能は十分にある。前田大尊のお父さんは強く、大尊もヤクザの兄ですらも頭があがらない存在である。大尊は不良ではあるが、弱いものいじめのような倫理的に悪いことをしない。
それはこの偉大な父親がストッパーとしての役割をしているからだと思われる。 

「今日から俺は」に関しても伊藤の家はちょっとだけお金持ちの中流家庭としてかかれている。家族の仲も良好だ。
三橋の家は、伊藤の家にくらべるとやや貧乏ではあるが、三橋のお母さんは昭和の肝っ玉母ちゃんというような感じで、口うるさいが三橋への愛は十分に感じる。


それに比べて、東京リベンジャーズは家族として安定して機能している家庭がほぼでてこない。
無敵のマイキーこと佐野万次郎は父母を早く亡くしている。しかも作中でかなり仲がいい妹すら亡くす。

主人公の花垣武道については家族の描写すらない。主人公なのにである。

マイキーの盟友ドラケンの実家は渋谷の風俗店である。
東京卍會創設メンバーの三ツ谷はシングルマザー家庭で育っていて、母親が夜中いなくて幼い弟と妹の世話を一晩中見ている。

クリスマス決戦編では柴八戒の家庭のDVが中心に話が進む。

天竺編で活躍するイザナは相当複雑な家族歴をもち屈折している。イザナの相棒の鶴蝶は家族を事故で亡くしていて孤児だ。

「東京卍リベンジャーズ」に出てくる不良たちの家族の描写はすべてどこかしら不幸である。

そして主人公の花垣武道の彼女である不良ではない橘日向の家庭は、典型的ないわゆる一般的に機能している核家族として描写されている。これは不良の家族が機能不全であるというのと対比的である。

「東京リベンジャーズ」の不良の家族についての描写には、機能不全家族や貧困ゆえの非行、そしてそれが犯罪に直結していくという現代の問題が表れている。

80年代や90年代は「普通の家庭」というボリューム層が存在した。そしてその普通の家庭の子も不良になったし、どこかで立ち直ることがてきた。それは社会に余裕があったからだ。

しかし現代は総中流社会が崩れて、貧富の差が激しくなっている。
生育環境に何かしらの問題があった場合に不良になり、一度非行に走るとなかなか表の道に戻るはできない。

「東京卍リベンジャーズ」主人公はタイムリープできる能力を生かして、悪い未来がこないように何度も過去を変えていく。

しかし主人公がうまく過去を変えた思って未来に帰っても、その未来は何らかの形で不幸になっている。
過去を変えて別の未来が訪れていて、一見成功しているような登場人物も、半グレのような仕事で生計を立てていて闇を抱えているのだ。

この事実は生育環境に問題があると負のスパイラルに陥ってしまい、浮かび上がることができないという今の世の中を暗示しているように思えてならない。

鶴蝶とイザナが手を繋いで死ぬシーンで「俺たちうまく生きられなかったな」というセリフがあるが、これは不幸な生い立ちは即、不幸な生き方に繋がってしまうような現在の日本の姿を表現した言葉であると私は思う。

そして賛否両論ある最終回は、現在の日本の救いようのなくなっている社会ではなく、みんなが平等に幸せに生きられたらどんなにいいだろうという、作者やこの社会全体の願望を反映しているものなのだろうと私は勝手に考えている。

みんなが笑って大円団を迎えられるような社会になるといいなと私も強く思う。

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