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「さびしさについて」

 さびしさ、と、さみしさ、って同じだけれど、ちょっと語感がちがうよね、なんて思う。私は「さみしさ」派なんだけど。この「び」の濁音が、よりさみしく思うのは気のせいか。
 この本は「さびしさ」について。
 植本一子さんの新刊。植本さんと滝口悠生さんの往復書簡なのでいつもと趣が違うだろうか。失礼ながら、滝口さんは知らず、作品も読んだことがないのだけど。
 個人的にはさみしさは、あんまり良くはわからない。たまにさみしくないですか?とか聞かれることもあるけど、うーん、私は今の生活においてさみしいとはあまり思っていないかもしれない。

 家族というか、子に対する眼差し、というものが書かれていて、心が痛くなる。
 子供なんだけれど、個人であり、主体がどこにあるのかを考えながら接するという滝口さんの姿勢にはとても誠実なものを感じる。同時に子供を育てるということの難しさも感じる。

さびしさは、おそらくこの先、誰といてもなくなることはないでしょう。それでも、これまで積み重ねてきた誰かと一緒にいた時間が、それを軽くしてくれることがあるかもしれない。

 子供が立つ様子を滝口さんが描写するくだりが何度かあるのだけれど、先日観た「哀れなるものたち」を思い出した。いま、私たちは当たり前のように歩いたり階段を降りたり登ったり、不自由なく動いている。身体をどう使うか、どのように動かしていくかも、実はそれを学ぶ過程と脳の発達があるわけで。生まれてすぐに立ち上がる動物もいることを考えると、人間って結構不思議な生き物だな、と思う。この本の内容とあまり関係ないのだけど。
 子供への眼差しの暖かさや、子供への愛がそこかしこに描かれていて、自分はそうしたものに非常に無自覚だったが(子供だったし)、このように眼差されていたのであれば良いな、と思う。
 そしてなにより、自分も子供であったことがあったのだな、ということをしみじみと思い出す。
 なんとなくこの本がさびしさについて、なのが腑に落ちる。

ひとりになることで、はじめて気づける他人の存在があって、ひとりでいるときほど結局誰かのことを思ってしまう。誰かのことを思うことで、ひとりでいられる。本を読んだり、文章を書いたりすることは、ひとりでしかできないことです。

 植本さんがパートナーと離れて、ひとりになり、気持ちに紆余曲折ありつつも、ひとりになることも悪くない、と伝えた後の滝口さんの返信がこの引用したもの。
 ひとりでいるから、他者を思い、他者を思うことでひとりでいられる、それは本当に素敵なことだと思う。

 植本さんの書簡の中に「いちこがんばれ」という言葉が出てくるのだけれど、これ私も自分によくいう言葉だな、と思ってちょっと笑ってしまった。ひとりでいると、自分で自分を励ますシーンというのが結構あるんだよね。

 この本を読んで、私の中に常にそこにあり続ける名前のない感情の中の一つはさみしさなのかも知れないな、と思った。さみしさへの解像度が少し上がったような気がした。
 滝口さんの本を読んでみたいと思う。

 これで書きためていた本の記録はおしまい。最近本が読めなくて、なのですが、かきとめられなくても、少しづつ読んでます。

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