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ダークヒーローの概念の裾を掴んだ日

マーベルは好きだ。映画はスパイダーマンの一作目しか見たことが無い。

私にとってマーベルは、世界的ネズミのチャンネルでやっているアニメだ。特にアルティメットなスパーダーマンのやつ。アイアンフィストが一番好き。

スーサイドスクワッドが公開された当時、私は偶然海外にいて、ステイ先の姉妹に誘われるがまま、台詞の99%を理解できないままに見たのが、DCと私の出会いである。出会いとは言えど、その後DCコミックにはまったわけでもなければ、別作品を視聴したわけでもない。ただひとつ、かの有名なジョーカーという悪役の、口許が笑っていても妙に見開かれた目の、不思議で派手派手しい魅力は記憶に残っていた。

それから数年が経ち、3、4か月ほど前に見かけたのが、もう数日で公開になる映画、「ジョーカー」の海外版の予告映像だった。そこに映る素顔の悪役は、見た目こそ派手派手しくなかったが、やはり目を見開いて、その上実につまらなそうに笑うので、見てみようかなという気分になったのである。

ただ事前知識があまりにないので、映画好きの友人に「ジョーカーを知る為にバットマンを見たい」と、半ば強引に選ばせたのが、「ビギンズ」と「ダークナイト」の2本だった。本当はライジングまで選んでもらったのだが、まだ見ていない。出し惜しんでいるのだ。

お目当てだったジョーカーは「ダークナイト」における、主人公バットマンの敵役であり、この作品のジョーカーが映画好きには言わずと知れた存在である、そうだ。

事実、彼には隙が無かった。お札を燃やす背中にさえも隙が無い。役とか演技とか、そういった表現の枠を超えて、画面越しの舐めるように周囲を観察する視線の動きに、だんだん薄気味悪さまで覚えてくるような不安感と生々しさがそこにはあった。本人の戦闘力はそこまで高くなさそうなのに、絶対敵に回したくない。確かに「怪演」と言われるわけだなあ、と納得する程のジョーカーっぷりだったので、様子見のつまみ食いのつもりが、ものすごく満足してしまった。

ただ、物語の主人公はバットマンである。申し訳ない事に、私から一切の期待を抱かれていなかった主人公だが、これがとても、堂々とした「ヒーロー」だった。

バットマンの見た目はけして、所謂ヒーローらしい格好良いものではない。物語として蝙蝠をモチーフにしたかった主人公の心情を理解はできるが、何も自分が蝙蝠と同じ影形にならなくたって良いではないかと視聴中何度となく思った。

そしてきっと、最強のおじいちゃんズの二人が居なければ、彼のヒーローとしての純粋な戦闘力は半減してしまうだろう。半減どころではないかもしれない。結構戦える金持ち、程度かもしれない。

冗談ではない程の金持ちだからできる事は多いだろうが、本質は一般人に非常に近いのだろうと思う。自分の傷を自分で縫いながらも戦う姿は中身の人間を感じさせる。ちょっとダサい手作り感のある格好の彼を応援したくなるし、だんだん格好良くも見えてくる。強いから戦っているのではなく、守るために戦い、戦う為に誰かに頼りながらも強くある姿勢がバットマンだった。世界から一歩距離を置き、仮面を被り続け、最善の策であれば罪だって被ることを甘んじて受け入れる、心優しいヒーローだった。

自己犠牲がどうのという話では決してなく、しんどいだろう、孤独だろうと想像がつく中で、自らをヒーローと定義付け、唇を噛んで背筋を伸ばしている姿を応援したくなるのだ。幼い頃、魔法少女を手を振って応援していたのと全く同じテンションである。

多くを語らず、バイクを駆って、恨みを甘んじて受け入れ、やっぱり少しダサいマントを翻すその姿に、「これが、世に聞くダークヒーローというものか」とその言葉がすとんと腑に落ちた気がした。

まだ「ライジング」が残っている。まだ彼を応援する楽しみが残っている。それはなんと幸せな事だろう。


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