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人間

頭が真っ白になった。
ほんの数秒間、送られてきたLINEの文面が確かなものなのか再度確認した。

高校時代の担任の先生が亡くなられたとのこと。
その先生にとって、ぼくは初めて受け持つ生徒であり、高校生活3年間を担当した。
担任の先生とぼくとの当時の関係性は、必要なときに話す程度で、頻繁に会話することはなかった。だから、卒業してからも会うようなことはなかった。

これまで、何度か身近な人の死を経験してきた。それでも慣れない。
慣れてしまうことではないし、慣れてしまってはいけないことだ。
何度経験しても思うことは一緒で、会えなくなる前に会っておけばよかった。
そんな後悔をしたところで、どうにもならないことは理解している。
それでも思ってしまう。

人生は短くて、いつ死ぬのかわからない。数秒後…たった今何か起きてもおかしくない。
それは、今回起きた能登半島地震のように、誰もが想像できなかったことのように。
そんなふうに、日々、考えていながらも早く会っておけばよかったと後悔し、何もしてこなかった自分を嫌に思った。
仕事が落ち着いたら、時間があるときに、そんなふうに後回しにしていた。

すぐにできることは、後回しにせずやると自分に言い聞かせてきたのにできなかった。

葬儀には、行けなかった。
腹立たしい気持ちのままで顔を会わせたくなかった。

ぼくの記憶にはないのだが、高校時代のグループLINE(クラスほぼ全員が入っている)をまだ持っていた。
そのLINEグループで、かつての同級生たちが亡くなった先生についてのやり取りをしていた。

その会話の内容は、気分を害するものだった。
こいつらは、当時から何も変わっていないんだなと。

そのLINEで会話していた同級生達は、3年間先生に迷惑をかけてきた人達だ。この文面では書けないような暴言、言動をしてきた人達。不良と呼ばれる類いであり、気に入らないことがあると他人にあたり、それを何とも思わないような、自分の思いどおりにしたい人達。
そんな人達が、当時と同じ感覚で先生のことを語り、その楽観的な頭をもってして先生に顔を会わせに行くらしいことをそのLINEで知った。

他人とわかり会うことが難しいと感じるのは、こういう鈍い感覚の人が多いと感じるからだ。
能登半島地震でのデマ情報があったように、理解できない、理解したくないけど向き合わなくてはいけないことが多い。
無視して関係を絶てばいいけど、そうはいかない気持ちもある。

何が正しいのかわからなくて、頭が痛むときがある。

わかり合うことができない人とは、なるべく関わらないようにして、自分自身が楽しんで過ごせるための思考を持って、そこだけに目を向けるべきなんだろうと再確認した。

わかろうとする努力はやめたくない。
この言葉は好きだ。

どんな人に対しても、偏見や先入観を持ちながらも相手の身になって考えるみるようにはしている。
それでも、受け入れられなければ遠ざける。
ぼくは、それでいいと思っている。

それでも、心のどこかで、この考えでいいのかと揺らいで考えてしまうことは、いつまでたっても変わらない。




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