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『僕』がすき

『僕』が好きだ。

できれば『僕』を使いたい。
一人称のなかで、響きがよく安心感があるからだ。文章に至っては、ひらがな表記でぼくを使う方が好きで、その方が読みやすい。

『俺』でもいいけど、威張っているような、格好つけているような気になる。
とはいえ『僕』を使うことに対しても、幼さのような、自分に合っていないような違和感を覚える。

会話の対象やその場で、一人称は変わるのだから、違和感を覚えてしまうのは普通なんだろうけど。

普段『俺』と『僕』が往き来している。

『僕』の方がいいのは、ただの好みだけでなく、少年漫画の主人公のような人としての優しさが、その言葉には含まれているように感じるからだ。
ぼくが優しい人でありたいという気持ちの一部として『僕』がある。

『僕』だけでなく『私』も言葉として、やわらかみのある優しい言葉だと思っていて、昔は頻繁に口にしていた。
でも、男性は『俺』が一般的であり、会話中でも引っ掛かりがない。
『僕』や『私』を使うことで、違和感を相手にあたえ円滑に会話ができないのであれば、使うべきではないなというのが、現状の考え。


上記の気持ちは少し嘘で、違和感を感じた相手から、なぜ『僕』を使かうのかの質問やバカにしたような反応に対しての返答が面倒だからだ。
なので普段は『俺』で通している。
『俺』が嫌いなわけではない。

人は基本的に、はみ出した部分に非難を与えたい傾向にある。

好きなようにさせてくれが本音。

近頃、歳相応に生きないといけないのだろうかと思うときがある。
その歳で、そんなこともわからないのかと言っている人の気持ちはわかる。
ぼくも思うときはある。
でも、言われると「うるせぇな、別にいいじゃねぇか」「これから知っていけばいいだろ」と思う自分がいる。

ある物事に、批判するだけなら悪口で陰口。
直接本人に伝え、アドバイスや教えを含んだ批判は、批判するだけとは大いに違う。
何でもかんでも、非難する人が増えていて、その度に目の前の人ばかり見てないで、もっと自分をみてくださいと言いたくなる気持ちで、心がゆらぐ。

近頃、心の浮き沈みが激しかったのもあり、気持ちを言葉にできず、noteと距離がだいぶあいていた。
突然、言葉に文章にできなくなると不安で心が乱れるんだと知った。

時間は要しているが、こうして少しずつ文章が書けていることが純粋に楽しい。
たった1000文字程度だが、4日程かけてこの文章を書いている。
書いては消しての繰り返しだけれど、自分が読みやすい、使いたい言葉、表現したい文章が書けたとき、自分を誇らしく思える。

他の方の記事を読ませていただく中で、真似したい表現や言葉遣い、面白い暖かい記事を読むと書きたい感情が芽生えて、これまでnoteを続けられている。

こうして、支離滅裂な特にテーマが曖昧な内容でも、意外と最後まで読んでくださる方がいる。
ただただ、嬉しく思う。
流行に乗って消費するに消費され、その記憶は曖昧で淘汰されているエンタメが多い。それが当たり前の世の中。

ぼくのnoteは、80人ほどフォローしている。その中で、投稿の度に読んでいるユーザーは5人程しかいない。
時間をかけて、好きになったその方々の記事を読みたいし、その方に読んでもらえることが嬉しい。また、読んでもらいたい気持ちになる。

ぼくの大切な人、ぼくの中で大切していることを信じて、それを糧に周囲に流されないように生きていこうと、こうして書きながら思った。













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