「体育嫌い」の理解に対する根本的な勘違い

日本の体育界のおいて「体育が嫌いな子」は常に関心の的となっている。昨年度まで重点目標として施行されてきた「第2期スポーツ基本計画」の中でも、「体育を嫌い・やや嫌いという生徒を半減(16.4%→8%)」という数値目標とともに示されてきた。それに伴い、現場の体育指導者も「誰が体育を嫌っているのか?」「どうすれば好きになってもらえるか?」など、必死に模索を続けてこられたと思う。

しかし、私が現場で見てきた感覚としては、体育嫌いの生産に歯止めがかかっていないが正直な感想だ。なぜなら、現場の体育実践を見る限り、「体育嫌い」の理解とその対策においてある根本的な勘違いをしているからである。本稿はその”勘違い”を指摘し、体育嫌いの生産に歯止めをかけるための方法について提案する。

「体育嫌い」は何を嫌っているのか?

そもそも、体育を嫌いという人々は何を理由にしているのか?もちろんそれは非常に多様で、一概に言えるものではないことは承知している。しかし、何らかの傾向をつかまなければ、これへの対策はとれない。そこで、私は次のエッセイ集に目を通した。

ここには、過去の体育での苦い思いやネガティブな経験から体育への「鬱憤」を晴らすことをテーマにしたエッセイが数々綴られている。また、私自身が周囲から聞いた話なども踏まえ、体育を嫌いになった主な原因を探った。

すると、1つの共通項が見えてきた。それは、「自分の運動を評価されることへの恐怖や不安」である。跳び箱や持久走で周りの子よりできないことをさらされたり、自分のミスでチームメイトからの叱責やため息を浴びせられたりした経験がもたらす負の感情が、彼ら(彼女らも含む)を体育から遠ざけている。また、彼らの特徴として、自分の運動能力の低さをコンプレックスに感じていながら、そもそも「上達」を望んでいない。しかし、体育の授業では「上達のための努力」を強いられる。その克服や努力をすることへの強迫的な圧力もまた、彼らの体育嫌いを生み出す原因となっていると考えられた。

この傾向は、若者の運動離れの原因について国を挙げて調査をしたイギリスでも同様にみられる。運動からドロップアウト(離脱)する若者の要因として、「他者から見られることへの不安」や「能力に見合わない無理難題への挑戦」といった要素が挙げられ、運動への態度がネガティブなパーソナリティーには特にその傾向が強く表れた。

この研究手法を用いた日本国内の研究においても、体育にネガティブなイメージをもつ学生は同様の不安を抱えていることが明らかとなり、個人の体験談は多くの「体育嫌い」に共通する要素を秘めていることが裏付けられた。

「体育側」がとってきたアプローチ

では、これらの「体育嫌い」たちに、体育側はどのようなアプローチをとってきたのだろうか?そのアプローチを選択しているのは個々の体育指導者ではあるが、そのフレームワークによって選択肢の制限や選択の誘導を暗黙にしていると考えられるため、ここではあえて「体育側」と総称し、個人の判断ではない部分に問題の所在を見出すこととする。

体育側の揺らがぬ信念として根底に抱えているのが「わかる楽しさ・できる楽しさ」である。つまり、体育の楽しさは「わかる・できる」によってもたらされると考えている。実は、これ自体は何も間違っていない。実際に多くのスポーツ愛好家は様々な運動課題にチャレンジし、それらをクリアすることで快感を味わっている。また、そのクリアに向けて運動のコツや失敗の原因などを「わかる」ことの重要性も理解している。しかし、繰り返すがこれはあくまでも「スポーツ愛好家」にとっての話である。

スポーツ愛好家とそうでない人の一番の違いは、その運動やスポーツに対する「上達」へのモチベーションである。スポーツ愛好家は、上達すること、あるいは上達に向けて努力することを「楽しい」と感じている。だから「わかる・できる=楽しい」という図式が成り立つのだ。一方で、上達のモチベーションがない人にとってこの図式が成り立たないことは理解に難くない。上達のモチベーションがないということは、すなわち「わからなくても別にいい」「できなくても別に問題ない」という構えである。

ところが、体育側はそのようなモチベーションの相手にも関係なく「みんなで考えて、みんなで上達しよう」を”強制”する。つまり、スポーツが好きかどうかに関係なく、スポーツ愛好家と同じ取り組み方をすれば、みんながスポーツを好きになると勝手に信じ込んでいるのだ。このような思惑は学習指導要領の至るところから透けて見える。冒頭に出したスポーツ基本計画内の数値でも「嫌い・やや嫌い」はわずか16.4%であり、その意味では80%以上の子供に対してはこのアプローチは「正解」といえる。しかし、このアプローチ”のみ”を取り続ければ、常に残りの2割の子供にとっては「間違った」アプローチをし続けることになる。これが私の感じる「体育嫌いの生産に歯止めがかかっていない」原因である。

体育側の「勘違い」を裏付ける理論

ここで1つの理論を紹介する。それは、アメリカの心理学者ハーズバーグによる「動機づけ・衛生理論(別称:二要因理論)」である。これは主に組織論などマネジメント領域でよく用いられる理論であるが、その要旨は「その対象が個人に快をもたらす要因と不快をもたらす要因は別である」ということである。

例えば、今のあなたの職場環境について考えてほしい。その上で「今の仕事の好きな部分は何ですか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか。やりがいがある、自分の能力を生かせる、給与が十分であるなどの回答があるだろう。次に「今の仕事の嫌な部分は何ですか?」と聞かれたら、今度は何と答えるか。残業が多い、同僚や上司とウマが合わない、休みを自由に取れないなど、先ほどとは全く異なる部分が挙げられたのではないだろうか。

つまり、好きな理由が「〇〇がある」としたとき、嫌いな理由は「〇〇がない」ではなく「△△がある」の方が原因となる。そのためアプローチ方法も①好きな要因を増やす(〇〇を増やす)と②嫌いな要因を減らす(△△を減らす)の2つがあるというのが、この理論の主張である。

体育嫌いのまま大人になり、大学のサークルや社会人の付き合いでたまたまやったスポーツにとても魅せられ、スポーツへのイメージが一変したという話はよく耳にする。そのような体験をした人が口々に言うのは、「自分が嫌いだったのは”運動”ではなく”体育”だったんだ」という気付きである。このことは、体育が「運動+α」という特別なものであることの証左であり、多くの体育嫌いは「運動」ではなく「+α」の部分を嫌っている可能性が高いという重要な示唆を与えてくれる。

この区別はハーズバーグの理論とも非常に相性が良い。「運動」は好きでも「+α」が嫌なせいで、トータルして「体育=嫌」のイメージが植え付けられている。となれば、とるべきアプローチは「①好きな要因を増やす」よりも「②嫌な要因を減らす」の方である。すなわち、変えるべきは「運動」ではなく「+α」の方である。ところが、先述のとおり従来の体育側のアプローチは「運動」に向けられたものばかりで、その他の要素には一切目もくれなった。ここが体育の冒している最大の「勘違い」である。

体育が見直すべきポイント

ここまでくれば、次に考えるべきは「では、その+αとは何か?」であると自然に見えてくる。多くの体育嫌いを生み出している「+α」とは、まさに「まわりからの評価」である。ここでいう評価とは、必ずしも「成績」に関するものだけではない。一緒に運動をする集団のメンバーから、自分がヘタクソだ、自分は足が遅いと「思われる」ことすら嫌がっている。むしろ大きいのはそちらだとも考えられる。

つまり、体育嫌いの多くは運動自体は嫌いじゃない(場合によっては好きだ)けど、周りの人に醜態を”さらす”ことが嫌なのであり、従来の体育の授業はそのニーズに対する対策を何一つ講じてこなかったのである。なぜなら、体育は「わかる・できる」という上達こそがすべてであり、苦手なら努力して克服すればいいという精神でやっているからに他ならない。その精神が「技能評価」や「記録主義」を生み出し、「できることが素晴らしい。もっと上手くなれ。」という暗黙のメッセージを発信し続けている。

視点を変えて言い換えれば、従来の体育は「今は持っていない知識や技能」を中心とした運動体験となっている。その新しい技能の獲得こそが「上達」であり、未習得の技能を標榜し、既習の技能や知識はその獲得のための道具として考えられている。一方で、体育嫌いが望んでいる運動は「今持っている技能を使って楽しむこと」であり、それ以外の能力には全くの関心を持っていない。今持っている技能を使って楽しみたいのに、「これができればこんな楽しみも増えるよ」ははっきり言って余計なお世話なのである。

体育とは、様々な技能レベルの個人からなる集団である。その技能レベルを「レベル1」から「レベル5」と便宜上段階に分けたとして、体育嫌いが最も嫌がっているのは「レベル1が悪とされる空気」である。わかる・できるという上達志向の体育は、当然「レベル5=最良」であり、それと表裏一体に「レベル1=最悪」という暗黙のメッセージを発している。だから子供同士でも当たり前のように「上手い・下手」「速い・遅い」に目を向ける。体育嫌いにはこれがどうしても耐えられないのだ。

ならばどんなレベルでも関係ないとする”空気”を作ることに全力を注ぐしかない。勝敗はつけるが、そこに過剰にこだわらない。競争はするが、個人の能力差が露呈しにくいルール設計をする。ゲームセンターやアスレチック場にいるかのような「遊び」の雰囲気を作り出す。どんな「運動」かという部分ももちろん重要だが、すべての参加者が肩の力を抜いてリラックスできる空間づくりという「+α」の部分こそ、体育はもっとこだわるべきである。

体育は「心の健康」に貢献しているか

最後に、新たに始まった第3期スポーツ基本計画の中で指摘されている重要なポイントを押さえておく。近年、スポーツと「Well-being」の関係性が強くいわれるようになり、今回の計画の中でもそれが基本計画の目標として掲げられた。Well-beingとは、幸福や豊かなくらしを象徴する概念で、「自分が今の生活にどのくらい満足しているか」という主観的な幸福感として考えられている。そこにスポーツが貢献するということは、スポーツ活動を通して、自分の生活の幸福感を高めることを目指すということである。

すなわち、これからのスポーツや体育が目を向けるべき点は、参加者の「心の健康」なのである。毎回のスポーツや運動時に心がどれだけポジティブな感情に満たされているか、終わった後にどれだけの満足感が得られているか、そこにもっとこだわることが、第3期の重点目標として掲げられたのだ。キーワードは「心にフォーカスした体育」とでもいえるだろうか。これまでは「わかる・できる」など、あくまでも「頭」や「体」にフォーカスをしてきた。その結果、2割弱の「体育嫌い」が生み出され続けている。

この「心」へのフォーカスを続けることによって、これまで”犠牲者”とされてしまっていた運動が苦手な子供にも、体育を満喫できるチャンスを用意することができるだろう。私自身はとにかく「毎回の体育で楽しい時間を提供しよう」と心がけ、毎回の授業の満足度にこだわってきた(決して”ご機嫌取り”ではない)。また、定期的に子供たちに「体育へのイメージ」を聞いている。「好き=5」または「嫌い=1」を5段階評価とし、昨年度末は「3」が2名であとは全員が「4・5」を選んでくれた。今年度も4月の時点で唯一「1」だった子が、7月の時点では「3」を選んでいる。つまり、現時点で私の体育授業を体験している子供たちの中で、「体育嫌い」は0%である。心にフォーカスした体育で、体育嫌いは確実に減らせると私自身がエビデンスとして証明し続けたい。そのエビデンスづくりの仲間が増えてくれることを願うばかりである。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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