「ルールを守る」だけで本当にいいのか?

体育では、スポーツやゲームを通してルールを守ることの大切さを伝えなければならない。それは多くの教員が無意識に、あるいは非常に高い優先度をもって指導していることだろう。しかし、本稿はあえて「ルールを守る」ことを批判的に捉えたい。先日読んだ川谷茂樹氏の「スポーツにおけるルールの根拠としてのエトスの探求」という論文が非常に重要なインプリケーションを与えてくれた。やはり「エトス」がキーワードになるのだが、その詳細は後述するとし、先に具体的な事例から考えたい。

次の4人の行為を、あなたはそれぞれ「許容できる」か「望ましくないと思う」のどちらと捉えるか?

体育でドッジボールをしている最中、
A:転がったボールを必死に追い、勢い余ってラインを越えてしまった子
B:相手が投げたボールをわざとヘディングで受ける子
C:プレーに参加せず、外野で立ち話や応援だけをしている子
D:外野で立ち尽くしている子

別に性格診断テストをするつもりはないが、この問いへの回答からあなたの「ルールを守る」ことへの指導観が少し垣間見えるだろう。では、順を追って説明する。

「エトス」とは何か

この言葉は古代ギリシャまで遡る。哲学者アリストテレスは、人間の行動を決定する3要素として「ロゴス:Logos・エトス:Ethos・パトス:Patos」を挙げた。現代の言葉で置き換えると、「論理:Logic・倫理:Ethics・感情:Passion」となる。つまり、本稿で主題となる「エトス」とは倫理のことである。

では、「倫理」とは何か。よく似た言葉として「道徳:moral」があるが、両者が混同される場面も少なくない。どちらも広く「人が取るべき行動」を意味するが、その起源の違いによって区別されている。道徳とは、個人に内面化された世界の中での価値観に基づいて決定されるものであり、同じ事象に対しても各個人で異なる捉え方をする。一方で倫理とは、個人の外側に存在する世界での価値観に基づいて決定されるものであり、しばしば個人に「要求」するものである。平たく言えば、「私はこうすべきと思う(I should do)」は道徳であり、「社会はあなたにこうしてほしい(You should do)」は倫理となる。

ゲームの「エトス」と個人の「エトス」

川谷氏は、論文の中でゲームの「エトス」と個人の「エトス」という二重構造について言及している。ゲームとは、ある特定の条件下で参加者同士が勝敗を競い合うことであり、「勝敗(優劣)を付けること」がゲームの目的である。したがって、その目的達成のためにとるべき行動、すなわちエトスとは「互いに勝利を目指して競い合うこと(You should try to defeat the opponent)」となる。

個人のエトスとはどういうことか。自分で自分自身に「You should do~」と言い聞かせるということは、すなわち自分にとっての目的意識である。例えば長距離ランナーは、レースによって順位ねらいかタイムねらいを明確にしたうえで臨んでいる。自分への指示が「相手に勝て」なのか「タイムを出せ」なのかではレース戦略に大きな差が生じるため、この意識は非常に重要なのだ。他にも市民ランナーであれば「気楽に走れ」や「やせるために走れ」など様々な個人のエトスがあり、皆それに従うようにしてランニングを実施している。

2つのエトスの食い違い

このようにエトスをもった「ゲーム」の中に別のエトスをもった「個人」が参加する構造になるが、ほとんどの場合はこれが一致する。すなわち2つのエトスが同じ方向を向き、「相手に勝て」というゲームのエトスに対して「勝ちたい」という個人のエトスが追随するような関係になる。勝利を追求する程度の違いはあれ、ゲーム内で個人が勝利につながる行動(得点を目指す・相手の攻撃を阻止しようとするなど)を選択する限りは、このバランスは保たれる。

しかし、当然ながら個人のエトスがゲームのエトスと食い違う場合もある。例えば日本代表の選考を兼ねたテストマッチでは、「相手に勝て」というエトスをもつゲームの中で「自分が活躍してアピールしたい」という方向性の違うエトスを個人が抱えることになる。この板挟みによって、選手は味方を生かすか、自分で勝負するかプレーの選択を見誤りがちになってしまう。このように、ゲームという「大きなエトス」の中で個人をつき動かす「小さなエトス」が一致しないと、本人の葛藤や傍から見たときの違和感を覚えるのだ。

さらに、複数のゲームから構成される「大会」などのより大きなものにもエトスはある。具体的な例としては、2018年サッカーW杯ロシア大会の日本vsポーランド戦が記憶に新しいだろう。後半残り15分、両者引き分け状態にも関わらず、互いに得点を目指すことを止めた。このまま引き分けを選べば「勝ち残れ=グループリーグを突破しろ」という大会がもつエトスにとっては合理的であるが、目の前のゲームがもつ「相手に勝て」というエトスには反することになる。このように、大:W杯・中:単一ゲーム・小:個人という3つのエトスが層になっているのだが、大と中のエトスが相反すると、小:個人はどちらのエトスに従うべきが迷ってしまうのだ。
(とはいえ、結局はより大きなエトスに従うことが”自然”であるとされることが多い)

「ルール違反」にも段階がある

次に、エトスよりはなじみのある「ルール」について再定義する。ルールとは、ゲーム内にの目標行動を達成するときに課される制約であり、言い換えれば「この範囲の中で競ってね」という要求である。しかし、エトスという倫理的な要求とは少し性質が異なる。なぜなら、エトスは仮にそれに従わなくても構わない(もちろん従った方がよい)が、ルールはそれに従わないと罰則が下されるからである。

川谷氏は、ルールを侵す行為を「ゲームを壊す違反」と「ゲームを壊さない違反」に区別している。例として、サッカーとハンドボールを比較してみよう。どちらのスポーツにも共通して、「ボールの保持権が移ったとき、相手のプレー再開を不当に遅延させてはならない」というルールがある。ところが、サッカーの試合では、ファールをした後にちょこんとボールを蹴ったり、すぐに相手にボールを返さなかったりする場面をよく見るだろう。これは明らかな「ルール違反」ではないのか?審判はそのようなプレーには声をかけて「注意」はするが、特段それ以上の罰則はめったにない。

一方で、ハンドボールでは同様の振る舞いによって相手の速攻を妨害した場合、それが意図的かどうかにかかわらず、一発で「2分間退場」という罰則が科される。そのため、選手は”うっかり”でもそうならないように気を付けながら自陣へ戻るのだ。同じ「遅延行為」という明記されたルールなのに、サッカーとハンドボールではなぜこのような差が出るのか。それは、遅延行為はハンドボールにとって「ゲームを壊す違反」だが、サッカーにとっては「ゲームを壊さない違反」だからである。

「ルール」と「エトス」の関係

ハンドボールもサッカーも、どちらも「相手より多くの得点をする」ことを目指すスポーツである。しかし、60分間で合計約60点が入るハンドボールに対し、サッカーは90分間で数点しか入らない(0点の場合も少なくない)。これは、2つのスポーツがもつエトスに違いがあるからだといえる。

詳しくはその競技を調べていただきたいが、ハンドボールは、あらゆるルールが「素早い攻守の切り替え」を前提としたものになっている。すなわち、「素早く攻守を切り替えながら競い合え」というゲームのエトスがあり、それを実現するためにルールが定められている。したがって、相手の速攻を不当に遅延することは、「ゲームのエトスに反する」行為なのだ。

一方で、サッカーはそもそもゲームが大量得点を望んでいない。極端な表現をすれば、サッカーは上肢が使えない以外は「何でもあり」に近く、非常に自由度の高い中でまるで鍔迫り合いのようなじりじりとした攻防をするようにゲームが仕組まれている。したがって、遅延行為は「多少ならゲームのエトスには反さない」行為とされ、戦略的な遅延行為(=マリーシア)の存在が暗黙に認められている。

さらに、「多少」の度合いも極めて可変的である。川谷氏によれば、この度合いもそのゲームに参加する両チームと審判という三者の間で「合意」ができていればよいものであり、客観的に線引きをすることは不可能であるとしている。つまり、「ここまでは許そう」という暗黙の基準(=エトス)が一致していれば、それはルール違反にはならないのである。逆にいえば、そのエトスをつくる役割が審判には求められている。

このように、そのゲームのもつエトスによって、ルールの適用範囲が決まってくるという関係があることがわかった。川谷氏は、エトスを無視して額面通りの「ルール違反」を適用することをルール絶対主義とよび、それを批判している。ここまでの話を整理すれば、①大会等のより大きなエトス > ②単一ゲームのエトス > ③参加する個人のエトス > ④ルール という内包構造があり、より上位のエトスに合わせる形で行動や適用が修正されなければならないことが示唆された。

ドッジボールの4人の行動分析

では、冒頭に挙げた4人のドッジボール参加者の行動を読み解いていこう。

A:転がったボールを必死に追い、勢い余ってラインを越えてしまった子

Aの子はボールに対して積極的なアクションを起こしているため、ゲーム自体に前向きに参加していることが予想される。ドッジボールにおいて「ボールを保持する」ことは自チームを優位にするため、この積極性は「相手の内野人数を減らせ」というゲームのエトスに対しても合理的である。つまり、「運動を楽しめ」という体育のエトスと、その中でのゲームのエトスの両方に従っているといえる。

そんな中で”うっかり”侵してしまったラインオーバーというルール違反は、最上位の体育授業のエトスやドッジボールというゲームを「壊す」違反ではない。非常に軽微なものであるため、笑って済ませればよいもので、仮に繰り返されるのであれば、やんわりと指摘すればよい程度のものである。

B:相手が投げたボールをわざとヘディングで受ける子

これは判断が難しい微妙なところではなかろうか。首から上にボールが当たってもセーフというルールが全参加者に共通理解されていたとして、それを利用した「わざと顔面で受ける」行為はありかなしか?これもルールとエトスの関係から捉えてみよう。

まず、この行為自体は「ルール違反」ではない(同行為を禁止するという明確なルールがあれば別だが)。むしろ、ルールで許された行為内での戦略的・合理的な行動としてポジティブな評価さえできるものである。しかし、重要なのは、これがより上位のエトスに合致しているかどうかである。

この行為はアウトにならないための合理的な手段であるため、ゲームのエトスである「できるだけ長く生き残れ」というエトスには合致している。しかし、そのプレーを見た他の参加者から不満が出るのであれば、最上位の「みんなで運動を楽しむ」という体育のエトスには反していることになる。つまり、これは「ルール違反ではないが、エトス違反な行為」ということができる。この観点から、この行為は指摘されてしかるべきである。

しかし、注意が必要なのは、なぜこの行為がダメなのかという理由付けである。「みんなで楽しむため」という最上位のエトスを再確認することが大切で、闇雲にその行為を禁止するルールを追加すればよいものではない。エトスの共通理解ができていれば、あれダメ、これダメとルールを増やさなくても、平和的な解決は簡単にできる。より上位のエトスに従うようにプレーすることを指導していかなくてはならない。

C:プレーに参加せず、外野で立ち話や応援だけをしている子

投げることに自信がない子は、このような振る舞いをすることが珍しくない。これについても判断が分かれるところだと思われる。この行為は、ドッジボールにおけるどのルールにも反していないため、ルール違反であると指摘することはできない。では、エトスには合致しているのだろうか。

まず、ゲームのエトスと照合する。ドッジボールは「内野にいること」がゲームのエトスに従うことになるため、外野にいるときは「なるべく早く内野にもどる努力」が要求されている。しかし、それに応じず、むしろ「なるべくプレーに関わりたくない」という個人のエトスをもっているようでもある。この点で、ゲームのエトスとは合致していない。

一方で、「みんなでドッジボールを楽しむ」という体育のエトスには、自分なりの方法で従っているようにも見える。ボールには積極的ではないが、応援をするなど、ゲームの一部としてエンゲージされることを選んでいる。それを彼らが「楽しい」と感じているかは重要な問題だが、Cの行為は「最上位のエトスには従っているが、ゲームのエトスには従っていない」という歪な状態であることがわかる。

そのため、これを指摘するかどうかはかなり頭を悩ませる。これを指摘したいと感じた指導者は、まずは目の前のゲームのエトスに従わせる、すなわちより積極的にゲームに参加させることを大切にしているのだろう。しかし、それを強いるとむしろ体育自体へのイメージが悪くなり、最上位のエトスに反するというリスクも孕んでいる。

D:外野で立ち尽くしている子

ドッジボールでは当たり前のように見られる光景だろう。ドッジボールに限らず、体育ではゲーム内で「何もしない」という選択をする子は少なからずいる。これについても同様のロジックで考えたい。まず、何もしないということは、プレーに関与する機会もほとんどなく、そのためルール違反をする機会もまず訪れない。したがって、「立ち尽くす」という行為はルール違反ではない。では、エトスには合致しているのだろうか。

Cと同様、内野にもどることを求めたアクションをしていないことから、ゲームのエトスには従っていない。また、特にゲームを楽しんでいる様子もなく、最上位の体育のエトスにも従っていないように思われる。こうなってくると、もはや目の前の状況から「逃避」している状態となり、そのような姿を見つけると、指導者はその子を指導するよりかは、むしろドッジボールを選択したことを悔やむだろう。つまり、個人の上位にある「体育」と「ゲーム」という2つのエトスがそもそも合致していなかったと気づくのである。

しかし、不思議なのはこれが他教科だとそうはならないことである。例えば算数から「逃避」している子に対して、多くの場合は「逃避せずにエトスに従え(=積極的に参加しろ)」という要求をするだろう。体育のようにある程度自由に内容を構成できる教科では、子どもの逃避行動を自分の責任だと感じ、算数のように指導内容の自由度が低い教科では、子どもの逃避行動は自分の責任ではないかのうような振る舞いをする。この指導内容に対する教師の主観的なイニシアチブによって、振る舞いが変わることも非常に興味深く、機会があれば別稿にまとめたい。

「ルール」よりも「エトス」に従っているか

以上の考察から、ドッジボール中の4人の行為は、それぞれ次のようにまとめることができる。

A:行為は「ルール違反」であるが、そのもとになった個人のエトスは、ゲームのエトス・体育のエトス「どちらとも合致」する
B:行為は「ルール違反ではない」が、そのもとになった個人のエトスは、「ゲームのエトスと合致」する一方で、「体育のエトスに違反」している
C:行為は「ルール違反ではない」が、そのもとになった個人のエトスは、「ゲームのエトスに違反」している一方で、「体育のエトスに合致」する
D:行為は「ルール違反ではない」が、そのもとになった個人のエトスは、ゲームのエトス・体育のエトス「どちらにも違反」する

さらに端的に述べると、
A:ルールに違反(でもエトスは違反していない)
B:体育のエトスに違反
(でもルールは違反していない)
C:ゲームのエトスに違反
(でもルールは違反していない)
D:ゲーム・体育両方のエトスに違反
(でもルールは違反していない)
という違いがあるとわかった。

つまり、指導者は「ルール」に従わせたいのか、「エトス」に従わせたいのかをはっきりと自覚していなければならない。今回例示した4つの行為のうち、何を許容できて、何を望ましくないと感じるのか。それによってあなたの指導観が少し垣間見えたことだろう。

重要なことは、最上位のエトスが何を要求しているかということである。年齢やカテゴリーが違っていても、「サッカー」というゲームがもつエトスは常に一定である。しかし、そのゲームが体育なのか、クラブチームなのか、リーグ戦なのか、トーナメント戦なのかなど、上位にある文脈で要求される行動や価値観が異なるのだ。それを参加者全員にいかに共通理解させるかが、指導者としての最も重要な役割だといっても過言ではないだろう。

エトスがわかっているから、ルールの中で最適なパフォーマンスが発揮できる。私はそう信じて、日々指導にあたっている。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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