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『反中サイオプを脱却せよ!』その3

今回からは、タイトルを上記のように変更した。今回の記事は本書の第二章から:「冷戦の起源としてのグーゼンコ・デマ事件」。偽旗作戦による冷戦の幕開け。下に、歴史はミステリー(小説)だ。

冷戦の戦線が張られた


冷戦のきっかけは、一九四六年三月五日ではなく、一九四五年九月五日であることは歴史家の広く認めるところである。それは、二六歳の暗号担当職員が、クレムリンによってイギリス、カナダ、アメリカ政府内に送り込まれたスパイのものと思われるコードネームのリストを持って、カナダのオタワのソ連大使館を出た瞬間であった。この若い亡命者は、上司であるザボーチン大佐の電報メモと、ソ連の陰謀の存在を初めて世界に証明したとされるその他一〇八点の戦略上の機密文書も持ち出したのである。
この若い職員の名前はイゴール・グーゼンコ。彼が亡命したことから生じたスキャンダルは、カナダ史上最大の市民の自由の侵害という事件を生み出しただけでなく、伝聞と憶測測を元に起こされた偽装裁判を引き起こしたのであった。実際、一九八五年にようやく六本のマイクロフィルムの証拠書類が機密解除された時、その名にふさわしい文書は一枚もなかった。
グーゼンコ事件の結果、第二次世界大戦の反ファシストの戦火の中で培われた米・加・露の同盟関係は、すべて崩壊することになった。
ヘンリー・ウォレス(元フランクリン・D・ルーズベルトの副大統領)は、反共産主義のヒステリーの中で軍の戦闘能力の崩壊を目の当たりにして、こう声高に警鐘を鳴らした。

「われわれの兵士の血が戦場で乾かぬうちに、平和の敵が第三次世界大戦の土台を築こうとしている。この者たちに、その邪悪な企てを成功させてはならない。我々は、ルーズベルトの政策に従って、平和の時も戦争の時もロシアとの友好を深めることで、この者たちの毒を除去しなければならない。」

ウォレスが勇敢にもスポットライトを当てた、ファシズムを上から指揮する者たちに対するこの戦いは、悲しいかな成功を見ることはなかった。一九四五年から一九四八年のウォレスの進歩党からのアメリカ大統領選挙での敗北までの間、アメリカとカナダで起こった最も強い反冷戦の声は、直ちに「ロシアのエージェント」というレッテルを貼られ、CIA,FBIがが仕立てた赤い恐怖、すなわち後のマッカーシーイズムの恐怖の下で、彼らの評判、キャリア、自由が破壊されるのを目の当たりにした。カナダでは、ウォレスの進歩党の思想を共有する人たちは、当時国会議員だったフレッド・ローズ、リーダーのティム・バック、LLPナショナル・オーガナイザーのサム・カーが率いる労働進歩党という形をとった。三人とも、カナダでFDRの美城を守るための反冷戦の戦いを率い、イゴール・グーゼンコの物語の主要な登場人物となった。

グーゼンコのデマ物語の幕が切って落とされる

グーゼンコの主張を聞いたキング首相(カナダ)は、それが戦後の世界再建の希望を脅かすものであることを知り、そのため検証不可能な主張を公にすることを何ヶ月もためらい、さらには亡命者を庇護することさえもためらった。
やがてグーゼンコのデマが戦略的にアメリカのメディアにリークされると、反共主義者のヒステリーは高まり、キング首相は一九四六年二月五日、枢密院命令四一一号に基づき、グーゼンコ・スパイ事件に関する王立委員会を設立せざるを得なくなった。それ以前の枢密院令六四四四号は、戦争対策法を終戦後も延長し、スパイ容疑で告発されたすべての人間に対する外部との連絡を絶つ形の拘束、精神的拷問、人身保護権の剥奪を許可するもので、すでに可決されていた。
一九四六年二月一五日までに、最初の一五人が逮捕され、オタワのロックリフ軍事兵舎で家族や弁護士との面会もなく、何週間も隔離拘束された。逮捕された者は全員、数週間の精神的拷問と睡眠不足に苦しみ、王立委員会の審問官以外とのコミュニケーションもとれないまま、自殺の恐れのある者として監視下に置かれた。この裁判を担当した二人の裁判官は、カナダ勲章を授与された。そして、この事件の後、最高裁判所の判事となった。
市民の自由(カナダにはまだ権利章典(を保障するもの政府が基本的人権)がなかった)という概念を完全に無視し、主任弁護士の・・ウィリアムズは、「通常の証拠提示の規則を無視することが望ましいと考えるなら、それに縛られる必要はない。また、王立委員会の尋問を受ける人のために弁護士を出廷させる必要もない」と、王立委員会の設立を露骨に主張した。
 この裁判の間、被告人は誰も自分に不利な証拠を見ることができず、(王立カナダ騎馬警察)の警察官を含む関係者は、この裁判について公言すると五年の禁錮系に処せられると脅されていた。その中で、唯一メディアに対して自由に発言し、書くことができたのが、イゴール・グーゼンコその人だった。インタビューを受ける毎に千ドル以上の報酬を受け、出版する本についても有利な契約を約束され、さらに政府による生涯年金も保障された彼は、テレビに出る時も、法廷に出る時も、いつも頭に紙袋をかぶって覆面をしていた。この暗号担当職員は、裁判の被告人たちに実際に会ったことはなかったが、彼らに対する彼の証言は金科玉条のごとく扱われた。
 一九四六年六月二七日までに、王立委員会は七三三ページの最終報告書を発表した。この報告書は、グーゼンコ自身の著書とともに、欧米の価値を損ない、原子爆弾関連の機密を盗もうとするロシアの巨大な陰謀の証拠として、ジャーナリスト、政治家、歴史家たちがその後数十年にわたって引用、再引用する唯一の疑いようのない絶対的典拠となった。仮に研究者が実際に起こったことを解明しようと思ったとしても、長い期間にわたって、他に頼るべきものがなかったのである。
委員会が解散した後、まるで偶然のごとくにすべての裁判記録は破棄されるか「紛失」してしまい、実際の証拠を見るには、四〇年後にようやく機密指定が解かれるのを待つしかなかった。(続く)

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