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あの日のテディベアはいずこ。

そういえば、中学生のときにテディベアをつくったのだった。そういうキットが売っていて、ちくちくと針仕事をした。

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こんにちは、こんばんは。栗田真希です。

思えば、「なにかをつくりたい」という欲望は幼いときからあった。小学一年生のときにははじめてマフラーに挑戦した。幅員減少する道路のような歪な形になってしまった。編むときの毛糸のきつさをコントロールできなかったので、だんだんと幅が変わってしまったのだ。

その後、マフラーだけならなんとか編めるようになって、小学校高学年になると友だちにプレゼントしていた。道具が100均で揃えられるから子どもにも手が出しやすかったんだろう。

手を動かして、無心になる時間は好きだった。けれど、挫折することがほとんど。マフラーだって、文様を入れたり、あちこち交差させて立体的な柄をつくるのは苦手で、シンプルであればあるほど無心になれるのでよかった。

その点、テディベアはキットがあるのでほぼ無心でいける。型紙から布を切り、ちくちくと縫い、パーツを合体させていく。

ほかのものより、テディベアは印象深い。やっぱり生きものを模したものだから、扱いが変わるのかもしれない。愛らしく感じた。ぎゅうぎゅうに綿を詰めて、パンパンにした腕や胴。目の位置ひとつで印象が大きく異なるので、ずいぶん縫い付けるまで悩んだ。

それも、いまや行方不明だ。

ついつい、自分でつくったものを粗末にしてしまうところがある。買ってきた綺麗なものに比べると、どうしても劣る。恥ずかしい。自らの手間をありがたがる気持ちより、羞恥心が勝つ。それも子どもが試行錯誤してつくったものだから、なおさら。

さて、どんな布地で、どんな大きさだっただろう。名前はつけたのだろうか。もふもふの毛足の長いなのではなく、すっきりとしたチェックの布地でこしらえたテディベアは、男前な顔をしていたような、そうでもないような。

記憶のなかにだけ、輪郭のぼやけたガラクタのテディベアが住んでいる。それでいいよなあ、という気がする。

そんなにたくさんモノを持って生きていけないし、形あるものはいつかなくなる。

そして現在、絵付教室で描いた皿が大量で、持て余している。いつかこれらも、記憶のなかの住人になるのだろうか。

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