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昭和の正月支度

2020年が先ほど終わり、2021年になりました。日付は毎日変わっていくのに、年の変わり目は何やら厳かな「日付変更線越え」であることよ。

平成の時代はずうっと「ママ」をやっていました。二人の子どもの母であることは一生ついて回るけれど、平成から令和にかけてそれぞれに自分の進むべきところへ進んでいったので、令和は「ママ」を降りて、私をやろうと思えるようにようやくなりました。

じゃあ昭和の私は何やってたんだ、ってことですが、昭和はずっと「女子」をやってました。経済は右肩上がり、世の中は便利になるばかり、世界は欲しいものに溢れていて、なんならお金も溢れていて、よくないことなんて起こりそうになかった、夢のような時代。夢をみて夢を食べて過ごしていた「女子」の時代でした。

昭和の私の記憶は、ほぼ実家とともにある。とりわけ、季節の変わり目やシーズンごとの行事やしきたりの記憶は鮮やかで、きっとそれは日頃小さなことでいがみ合い、嫁と姑が互いの陰口を幼子に聞かせるような家の中が、この時ばかりは最強のチームに変貌し、完璧なオペレーションでその日を迎えることに、毎回ワクワクできたからだと思う。

正月の支度は12月に入る前から始まっている。鏡餅に飾る串柿づくりは、背負い籠いっぱいの渋柿をむく、晩秋の夜なべ仕事からだ。剥いた柿は7つずつ串に刺して串柿にするのと、ヘタを紐でくくりつなげて干し柿にするのだ。干し柿は冬のおやつになる。串柿は2つ、3つ、2つと間を空けて串に刺すと、鏡餅に飾った時に見栄えが良いからと祖母に教わった。

子どもの足でもお使いに行けるところにはお菓子と雑貨を扱う店しかなく、魚や肉の類は専ら行商が来るのを待ちわびていた。町の魚屋が週に2度、夕方4時過ぎにラジオを大音量で流しながら、集落への道を登ってくる。正月の支度もほぼこの魚屋が頼みである。昆布巻きに使う昆布やニシン、油揚げ、数の子、、、昆布巻きは暮れの27日頃からの仕事だった。子どもの仕事は昆布を7センチくらいの長さにハサミで切ること。中に巻き込むニシンやゴボウ、油揚げを切り揃えると、干瓢でくるくると巻いて結び止める。ニシンと油揚げの匂い。羽釜に出汁と昆布巻きを入れて、「おくどさん」にかける。祖母は結構始末(倹約)な人だったが、祖母の作る昆布巻きは毎年オーバーサイズで、多分今年頼んだおせちに入っている昆布巻の3倍はあったんじゃないか。そのうえ、帰省してくる父のきょうだい(とその家族)の分まで張り切って作るので、昆布巻きは三が日を越えて親戚がいなくなっても鍋の底にいた。

外周りの支度は父の仕事である。庭木を整え、庭をはき、入会の里山へと向かう。その頃はまだ鹿も熊も猿も里へ降りてくることはなく、年に一度か二度、枯れ田を鹿が飛ぶように走って山へ向かうのをみたくらいだった。なので子どもの私も山行きに同行する(させられる)のである。しばらくは山道を、そのうち道らしいところもなくなり、四方が大人の腰くらいの笹ばかりになってくる。父は立ち止まると、徐に松を伐り、紅い実のついた枝を伐り、もっこに白い土を入れていく。帰ると松飾りを作り、庭や軒下に白い土を撒く。歳神様、全て美しく清めました、どうぞお通りくださいと、神様のためのレッドカーペットならぬホワイトロードである。なるべくこの白い土を踏まないように、そうっと足を運んでいた私である。

子どもが「蔵へ行け」と命じられるのには2つの理由があって、ひとつは大人の言いつけを守らなかったときに有無を言わせず放り込まれる前。もう一つは蔵から「ハレ」の日のための調度を出してくるように言われるときである。正月にしか使わない器や掛け軸などが、薄暗い蔵の中で出番を待っている。その棚のその位置に必ずあるのは、本当にその時にしか蔵を出ることがないので、蔵の中での定位置が約束されているからだ。なので子どもでも在り処がすぐに覚えられる。お節を盛るための有田の三段重。九谷の酒器。客用の茶碗に皿。お雑煮用の朱塗りの椀。虎の掛け軸。松の掛け軸。埃っぽい空気の向こうにそれらはちゃんと居る。何でもない時にそれを確かめたくて、こっそり蔵へ入り込んだこともあったが、木の扉の前にはもう一枚、漆喰で固めた重い扉があり、古風な閂がかかるようになっている。外からこれを閉められたらアウトである。こっそり入り込むのはある意味勇気を試されることでもあった。

年末最大のイベントは餅つきである。餅米を水につける、臼と杵を出して熱い湯で洗う、かまどに火を起こし羽釜で湯を沸かし、半切に餅とり粉を振り、祖母と母は割烹着の紐を締め直して手水を臼の脇に据える。土間が熱気と蒸し米の匂いでいっぱいになったら餅つきの始まりである。臼に蒸しあがった餅米を移し、少しずつ杵でトントンと潰していく。程よく全体がまとまったら本腰を入れて(まさに腰を入れて)つき始める。子どもの仕事はいくつついたか数えておくことと、次につく蒸し米がしっかりと蒸しあがるよう、かまどの火を調節することである。盛大に湯気が上がっている餅を、杵に叩かれることなく手水をいれていく母。つき上がった餅は祖母が抱えるようにして半切へ移す。白くて熱くて湯気が上がっていて、自在に形を変えていく様は生き物のようでもある。手早く餅取り粉を振ったら、端から祖母が「餅1枚」の大きさにちぎっていく。ここでの子どもの仕事は、ちぎった餅を「花びら」にすることだ。餅の端をつまみ上げて一つにまとめ、きゅっと捻って形を整え、掌に載せたらもう一方の親指と小指で「餅の直径」を作り、くるくると餅を回して形を整え、最後にギュッと圧して、薄く花びらのようにする。丸餅とはいえこんもりとした厚みはないので、一枚二枚と数える「花びら餅」である。餅を作るのも順序があって、最初のひと臼は鏡餅(お鏡)や神棚に供えるものを、次は花びらを。餡入りの餅は最後のお楽しみだった。後年、嫁いだ先で餅つきを見せてもらった時には、つきたての餅を青菜の胡麻和えの中にちぎって放り込み、「菜餅」を作ったり、餡を包むのではなく餡の中につきたてをちぎり入れる「絡み餅」などをいただいて、同じ県でもこれほど違うのかと驚いた。ちなみに私の実家と嫁ぎ先は、江戸時代であれば「違う国」である。それも文化の境目で隣接しているため、正月のしきたりだけでなく日常の食生活や言葉も違っていることが多い。嫁いで久しいが、いまだに「切り餅を澄まし汁で煮て、青菜と鰹節で祝う」という嫁ぎ先の雑煮は苦手で、「丸餅を焼いて入れる」やり方で通している。

今年は誰も帰省せず、私自身も実家へ帰省しない。薪をくべたかまどもなくなって久しい。臼や杵は蔵のどこかで大人しく出番を待っているのだろうか。諸々の調度品も蔵の中で「ステイホーム」している。昆布巻は作るものではなく買うものになり、その買い物も省略、省略。「新しい日常」は決してこれまでの生活をなかったものにするということではない。それはわかっているけれど、じゃあこれまでの生活の中で、絶対に失くしてはいけないものって、何なんだろう。もしかしたらそれを私たちはもう手放してしまっているのかもしれない、巻くことのなくなった昆布巻きのように。つかなくなった餅のように。

(去年書いた4本分くらいを一気に書いちゃったようです)


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