見出し画像

~「次の桜が見れない」の意味~

タイトルの示す意味は、多くの人が推察されることと思う。昨年末よりずっと考えながら、まとめきれない内容があった。

このNoteの「さいごに」にて今後まとめようと思っていたものが、結果的に自分の言葉として一向にまとめられなかった。私の力不足でもあり、結論に納得できないこともあり…。

ただ、中途半端を残すことへの自責もあるが、生きているうちに…ということを改めて思ったので公開することにした。

YouTubeより拝借しているが、この数分間の間に自分も含めた病人と重ねて考えることが多々ある。


▼ 生検後に考えたこと

自分の治療はあくまで『寛解』を目指すという結論は、どの段階でも変わっていない。初発も、自家移植後も、再移植後も変わらなかったし、自分もそう思って治療をしてきた。

そして今回の再発を受けても、病院からのその方針は変わることはなかった。ただ、自分の中では前回の治療中に生を失いかけたことから少し考えが変わっていたように思う。

医師から提示された選択肢は3つ、そこに私の考えを1つ加えて4つの選択肢が私に問われた。

① リンパ球輸注

治療の詳細は何度か書いているので割愛をするが、医師としては最も有力視している治療法に感じた。

前回の弟からの同種移植が効果が無いわけではなく、癌細胞と拮抗している状態であるので応援を呼んで癌細胞を叩くという目論見である。

ただ、副作用も当然考えられるし、そもそも治療例がほとんどないので、どの様な結果になるのかの予想もあまりついていないとのことであった。

② 再移植

リスクとリターンの値として、最も高いモノがこの治療法になる。ドナーを見つけて、新しい造血幹細胞を移植することで癌細胞を叩くわけである。

上手くいった場合のメリットは大きいが、逆に死ぬかもしれないリスクは計り知れない。それだけの副作用を、前回の治療で起こしているからである。

一番死を強く意識して、覚悟をしなければいけない治療と言えるだろう。

③ 抗がん剤と放射線

①と②とは違い、この治療は寛解を目指すレベルにない。ある程度の期間の効果によって、延命を目指すイメージにある。

根本の解決と言うよりかは、現在の結論を先延ばしにして「未来の治療に賭ける」というのが正しいのではないかと思う。

延命して新薬を待つことや、改めて①や②の治療を未来に選択することになる。

ただ、新薬が出来る保証もなければ、未来においてリンパ輸注や移植が出来ない可能性も当然意識しなければいけない。選択肢は永遠ではなく、その時々で変わることを理解する必要がある。

④ このままの免疫に賭ける

生意気ながら私が提示した選択肢である。大学病院の退院時に表出してきた腫瘍は、結果的に消失した。一応免疫と癌細胞は拮抗状態にあるので、このまま何もせずに過ごすという選択肢である。

治療におけるリスクを取らない代わりに、現状から癌細胞の転移等で症状が悪化するリスクを負わなければいけない。転移しないかもしれないし、生命維持に必要な臓器に転移すれば生が絶たれる可能性もある。

これらの選択肢の中から、自分の意志で未来を決めなければいけない。その選び方として『治す』という視点から、『死なない』という視点で出来る限り選択肢を選ぼうとしていたのは事実である。

…私の中で、大きく考えの転機を迎えていたわけである。

▼ 「必死」と「決死」は違う

動画の中にはこの言葉が出てくる。極端に言えば、私は全く違うと思っている。決死の行動は「生きて帰ってくる可能性がある」という余白を残す。意志と言う名の下に、逃げ出すことも出来る。

選択の余地があるという意味では、この「決死」とは死を決めていながら生き残る可能性があるためなのか違和感が拭えなかった。

「事実」ではなく「覚悟」というニュアンスが適当ではないかと思う。「死ぬかもしれないということにチャレンジする」という心構えが、本質にあると私は捉えている。

一方で「必死」は違う。必ず死ぬのだ。生きて帰られる可能性が全くない。

桜花とは、放たれたら人は必ず死ぬ。そこに選択の余地はなく、生を願うことすら許されない。

元々、人間は必死の生き物であるが、その選択を出来なくなることは相当のことであると感じている。キレイごとで「人は必ず死ぬ」とも言えるが、実際の心境は計り知れない。

▼ 敵も味方もみんな狂っている

かなり胸に響く言葉である。そもそも「正常」や「普通」と言う言葉は、一体何を持ってその体を成すのかが、分からなくなる。

戦時中という特殊な状況下はもちろんのこと、私の様な病人も気が狂いそうになる判断を迫られることがある。

・ なぜ生きるのか?
・ 何のために生きるのか?
・ そもそも生きるとは何か?

多くの人が考えない…いや、考えない様にしていることを痛切に強制させられるような時間がある。

冷静に「考える」ことが正しいのか、それとも「考えない」ことが正しいのかなどと思うことなどあるだろうか?

思いつくことが常軌を逸している様だと自らを省みることが、あなたは一体どれほどの数経験してきたであろうか…。

▼ 人の命を部品にしてしもたんやからな

とてつもなく、響く表現である。命は目的ではなく、手段であるという思考は狂気以外の何物でもない。

合理的の極みとも言える「桜花」であるが、合理的を突き詰めると感情が一切遮断された世界になることを改めて思い知らされた。合理的と言うか、それ以外の選択肢がないという状況こそが人が恐れるべき状態であると改めて認識させられる。

敵の艦隊にぶつけるコントロールをする技術がない。ならば、人間にコントロールさせよう…とても合理的で身震いをする。

正しく効果を発揮するには人の命が必要であり、正しく使われれば人は必ず死ぬ。正しさの結果、人が死ぬ。

医師からの宣告や情報が、正しければ正しいほど死に近づく病人の姿と重ね合わせながらこの話を胸に刻んでいた。

▼ 散る桜 残る桜も 散る桜

表題の句は諸説あるが、良寛和尚という人物の辞世の句であると言われている。

桜は咲いた瞬間からやがて散りゆく運命を背負うが、それは人間も全く同じで「今まさに命が燃え尽きようとしている時にたとえ命が長らえたとしても、それもまた散りゆく命に変わりはない」と言った解釈が出来る。

死にゆく人を見送る人も、必ずいつかは死ぬ

ただ、桜花を見ながらこの句を眺めていると少し違う意味合いにも聞こえてくる。桜花に乗って命を落とす者もいるが、残った兵士もいずれ桜花然り米兵の手によって命を落とすことになる…という意味合いである。

どちらの解釈が正しいのかという結論を、出したいわけではない。もともと人間は『必死』であり、誰しもが必ずその運命を背負っている。

…ただ、そこに時間の要素を加えると、少し意味合いが変わってくる気がする。

自分が「死」を意識した上での「死」なのか、自分が望んで受け入れられる状態であった「死」なのか、そして「死」が決まるまでの時間の空虚さすらあるのか、どうにも結論が出てこない。

突然、災害や事故で失われる命もある。病気等で、長い間苦しみと共に生きた結果迎える死もある。そして桜花の野上中尉の様に「死」への選択を己で行い、死へのカウントダウンを間近に感じながら迎える「死」もある。

『必死』という運命が決まっている人間の「死」の迎え方は、「結局誰でも死ぬのだから」という無機質で単一のモノなのだろうか…?

私は、最後まで結論を出せなかった。

▼ 春よ、来い

動画の背景に流れる、松任谷 由実氏が原曲の『春よ、来い』がさらに強烈な印象を残す。

動画内の人物は、誰しも次の桜を見ることが出来ない。次の春まで生きられないのであって、春は確実に来ることはない。

もし自分が同じような立場で、春を迎えられないことを知りつつこの歌を聞いたら一体どの様な心境になるのかは想像がし難い…。

春が来て欲しい。桜をまた見たい。…見れないってことは知ってるけどね。そんな見方をしてしまうと、胸が切なすぎる。

春を願うことすら許されない…その情景を、病気と戦いながら散っていた多くの命と重ね合わせてしまう。

▼ 自分の命の使い方

生きている中で、何となく死を感じることは戦争の動画を観たり、誰かの死を知ることによって感じられることは多い。

確実に有限である『命』を、普段は意識せずに遠い未来にくるかもしれないモノと錯覚している自分に、強烈な衝撃をもたらす。

病気になって、自分の命の「有限感」に向きあう様になった時に強く意識するのは『子供や家族のためなら、喜んで死ぬ』という感覚である。

自分の病気が命の短さを意識させているからなのかもしれないが、これは今の迷いない答えである。

・ 病気を代わってやりたい
・ 苦しむなら自分でいい
・ 命を取り換えて欲しい

病院内でも、病気の子供の親御さんの姿を見た時に自分への強いメッセージとなる。

「親なら、誰しもがそう思うのではないか?」とさえすら思う。

ただ、自分の命がそう長くないかもしれないという意識の下での考えであることは否めないのも事実である。

もう健康な状態には戻れないのでわからないことではあるが、私がもし病気ではない未来線において、今と同じような気持ちなのかどうか確かめることが出来ないのが残念でならない。

今の自分に出来ることは、願われていることに感謝して生きることを諦めないことに他ならない。そして大切な人のためであるなら、命を差し出すことが必要となれば迷わず差出して「人生に悔いなし」と微笑むことの出来る人生を送ることも、同じ様に強く意識しなければならないことである。

▼ 必死と決死をもう一度

改めて自分の病気と、桜花のストーリーを比べて思うことがある。それがこの『必死』と『決死』についてである。

治療とは結果的に「決死」であり、生きることの見返りとして死ぬ可能性を差し出さなければいけない。自分の命を捧ぐ決断を「決死」と呼ばずになんと呼べばいいのであろうか?

さらに付け加えると、治療をしないと生き残れないという選択肢を受け入れなければいけない。治療をしなければ死ぬのであるが、それが具体的に「いつ」であるかは分からない。そしてそれが「いつ」であれば受け入れられるのかも、分からない。

何よりも、治療を受け入れずに何もしなくても期待する期間生き残れるかもしれない。そんな混沌とした状況の中で、私以外にも「決死」の治療に挑む人たちが、数多く存在する。

一方で『必死』の視点で見れば、人は必ずいつかは死ぬ。それが突然なのか、満足した人生だったのか、病気等でやむを得ないモノであったのかはわからない。

人生は『必死』であるのだから、病気の治療などしなくても良い…なんて意見も目にしたことはあるが、私は賛成したくはない。

その中で自分の状況を整理すると、治療をすることも治療をしないこともどちらを選んでも「決死」の選択になる。これは人が必ず死ぬという「必死」の状態を、何とか自分から遠ざけるために選択をするという感覚である。

「必死」を選ばない様にしたいが、それは正論上ではただの「先延ばし」にしかならない。一方で「じゃあ、今死ねばいいのか?」という問いにもYESとは答えられない。

正しい「決死」の選び方など無いし、確率論で割り切れる話でもない。わからないから何かにすがりたいし、結論を保留もしたい。

…おそらく「決死」の治療を選択する人の心境は、まさにこのようなカタチではないかと思う。

▼ 今のわたし

リンパ輸注という「決死」の選択をして、現在まだ生を繋いでいる私としては改めて思うことがある。

・ やりたいことをする
・ やらなきゃいけないことをする
・ やらないと決めたことをしない
・ やりたくないことをしない

ごくごく当たり前のことではあるが、これが出来ている人は一体どれくらいいるのであろうか?

もう私には無駄な時間を過ごすことなんて出来ないし、様々なカタチで生かしてもらっている立場としては「生を全うしたい」と思っている。

こうやって書き物を残すことは「私のやりたいこと」であり、今は特に『無意識』『才能』というテーマを日々考察している。

自分自身を見つめ直し、改めて思うことは「気づくのが遅すぎたのかもしれない」という後悔である。どこかで病気は治ると楽観していたし、何をするにも「とりあえず病気が治ってから」ともっともらしい理由で先送りにしてきた気がする。

そんな中での最近の心境の変化としては「病気が治らないかもしれない『今』の自分を受け入れる」ということにある。昔の自分には戻れないし、筋肉も血液も内臓も一般人以下の状態でこれから生きていく必要がある。

カコだけではなく、叶えたかったミライも諦める必要がある。どこかで漠然と「いつかは出来るだろう」と考えていた「いつか」はもう恐らく自分にはやってこない。ただ、ひたすらに「今」を積み重ねていくことしか出来ない。

ただ、その中で絶望するのではなく「今」の自分のやりたいことをひたすらに整理している自分がいる。自分に素直に、自分の存在の大半を占める『無意識』の声を聞こうと努力している。

遅すぎたかもしれない。そう考えればまさにその通りかもしれないが、「いや、まだ私は生きている」そう言い聞かせながら、1日1日を大切に過ごしていきたい。

▼ さいごに

やはりまとまりがない文章であるが、これが私の現段階の文章力である。躊躇していれば、公開することもなく葬られることになるだろう。

だが、今の出来る精一杯と「自分のやりたいこと」に素直になろうと思いながら書き上げた。

…誰かに何かが届けば、幸いである。

ろくさん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?