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~…私は、やっぱりこの病院が大嫌いだ~

大学病院に入院して、数週間が経過している。いい人もいるのではあるが、感情的には今すぐにでも帰りたい

なんというか…作り上げられた「文化」が根本的に私とは合わない。その文化で醸造された人材も、やはり私と合わない

気にしなければいいのではあるが、黙っていてもそれはそれで絡まれるので質が悪い。

…一体どうしろと言うのか?

私の基本スタイルは『受け潰し』にある。戦国時代的に言うと、他国を攻めて領土を拡大する野心はないが、現在の自己の領土を踏みにじるモノには徹底的にいく…みたいなイメージであろうか?

兎にも角にも、自分から声を荒げることは圧倒的に少ないタイプである。

ただ、「感情を受け流すことは自律神経に良くない」とたまたまいくつか勉強したので、色々思いつく限り書いてみることにした。効果は未知数だ。

書かれる側は反論出来ないわけなので、なるべく話を小さくして書きたいと思っている。そこは武士の情けである。

医療従事者の方が読まれるのであれば「どうして言わなかった(相談しなかった、分からない時に聞かなかった)んですか!?」を多用する方は、背景にこの様なことが日々起きているかもしれないという参考…になるかどうかはわからない(-_-;)


▼ 対応が事務的、機械的

大きな病院になればなるほど、一人が受け持つ仕事の領域は恐らく限られてくることをひしひしと感じる。良く言えば「専門的」なのだろうが、悪く言えば「融通が利かない」と言うことが言える。

「それは私の仕事じゃない」

と言わんばかりに、あちらこちらにたらい回しにされることが非常に多い。何カ所も回った挙句にスタートに戻ることもザラにある。

スタートに戻って事情を話した際に「最初にそう言ってもらえれば~」の様な開き直りが多いのは、本当にタチが悪い。

『謝ると負け』という教えでもあるのか、はたまた作業の効率化なのか無機質に対応をされるケースが度々ある。謝らないし、こちらの感情をほとんど考慮しない。

「感情という不確かなモノをいちいち慮っていれば、業務に支障をきたす」という理屈なのかもしれないが、普段の私の考えとは相容れない。

こちらが時折感情を表に出して話をした際には「とりあえず謝る」ということで手打ちを試みられることもあるが、その際も「何に対して謝罪をしているのか?」というぐらい本質がずれて感情もこもっていないので、結局何の解決にもなっていない。

事務的に淡々と仕事をし、余計なこと(と彼ら、彼女らが考えること)とは距離を置く働き方を選択したのであれば「自分の仕事を完璧にしろ」と思うことは、もう1度や2度ではない。

『事務職が事務処理が出来ない』ということに…果たして価値があるのであろうか?

ボランティアか何かで無償で行っているわけでもなく、れっきとした『仕事』として対価を受け取る立場であるならば、対人処理もある程度こなすか十分な知識を持って仕事にあたり、間違う可能性を少なくしてほしいものである。

こんな事務職は「いずれAIに変わるだろうな」とひしひしと感じるのであるが、当人たちにその危機感は恐らく全くと言ってイイほどないのだろう。

▼ 1月末の会計の出来事

リンパ輸注の治療方針を医師と確認し、帰路に就くために会計を待っていた時の話である。番号札を取ってその時を待つが、なかなか呼ばれない。

かれこれ30分程待って、不意に番号ではなく名前を呼ばれた。会計窓口以外の窓口からだった。すると窓口から急に「3万5千円のお支払いが必要です」と説明を受けた。

「一体何の話だろう?」と思って聞いていると、昨年9月に掛かった費用の一部が支払われていないということが分かった。そして窓口の言い分としては「退院してから貴方が病院に来ていないから、費用請求出来なかった」という内容であった。

どういうことだろう?…無性に腹が立った。請求書を送るなり、電話で連絡するなりいくらでも方法はあったはずだ。なのに処理をしていなかった、つまり気づいていなかった請求を「病院に来なかった」という理由で説明し始めたからである。

私が戻りたくなかった大学病院に訪問せざるを得なかったのは、病気が再発したからである。先ほどの言い分を用いるのならリンパ腫の再発の肯定とも捉えられる。

思わず「じゃあ再発してなかったらここには来てないけど、請求はどうしたんですか?」と聞いてしまったが、回答は驚くべきもので「お話し出来て良かったです」であった。私は忘れない。絶対に。

イライラを押し殺し、再び座席に座って待つ。

だが、さらに30分が経過した。待ち時間としては異常である。両親はさすがの待ち時間に不快感を示した。まぁ…当然である。

ただ、私は寛容…になっていた。いや、正確に言うと完全に自分は会計を下に見ていた。もはや期待をしていないので、何の感情も無かった。

ただ、家族の状況を踏まえて再び先ほどの窓口に確認に行った。先ほどとは別の若い人が対応をした。先ほどの多少の年配の対応者は横の席だったが、こちらに見向きもしない。

…若い人の様子がおかしい。何やら作業をして「直ぐに私の番号が表示されます」と説明がされた。

悟った。私の会計処理はされていたが、番号の表示を失念していたのであろう。そして「今すぐ番号を出します。もしお急ぎであれば、この窓口でも対応します」と伝えられた。

我慢がならなかった。…話の本質はそこじゃないだろう。

自分の過ちを「ミス」とは言わず、遅くなった理由も言わない。これ以上怒られない様に簡単に話をはぐらかす。それがここでの正義なのだろう。

おそらく大多数にはそちらの方が効率がいいのだと思う。だが、私には到底受け入れられるものではなかった。

もう一度腹が立ったので『昨年9月分の会計を1月にしたことで、確定申告や高額療養費制度の計算はどうすれば良いのか?』という質問をした。自信なさげに若い人が何かを見ながら回答をする。

…先ほどの年配対応者に聞こえる様に言ったつもりだが、こちらを見向きもしない。

対応者の回答に「…絶対か?」と聞いた。「…はい。大丈夫です。」と答えが返ってきた。そしてその窓口ではなく、私は精算機へ向かった。

…なお、結果的に説明された内容は、健康保険組合へ確認したところ誤りであることが判明した。もう呆れて言葉も出ない。

本当にもう話をしたくない。

▼ 基本的に誰かのせい

前述の通り、基本的に「謝る」ということに感情を持ち合わせていない。感情が無いからこそ「なぜ謝るのか?」という根拠もない。

あまりにも酷い時は「何に謝罪をしているんですか?」という質問を時折してみるが言葉に詰まる人がとても多く、自分事として捉えていないことが浮き彫りとなる。

肩入れする部分が少しあるとすれば、業務量的(もしかしたら能力的にかも?)に目の前の仕事を捌くことに必死なのだろうと思う。限られた時間に対して、キャパシティギリギリの作業をしていればいちいち私の様な人間への対応を面倒に感じることは当然なのであろう。

タイパ重視というか、効率化を推し進められた環境で生み出されたこれらの化身の中にあるのは目の前のやるべき処理を遂行することであり、他人事で心を失っている…とすら感じられる。

…そんな人がここに本当に多いのは、最早「文化」なのであろうか。

▼ 依頼しづらい

様々なことが重なっていく中で、日常的なストレスとなりうるのは困った時に依頼しづらい人の存在である。これは頼みやすいかどうか…的な話とは少し異なる。

動けない時には遠慮なくナースコールをしていたが「こんなことまでお願いして申し訳ない」という感情はどうしても生じてしまっていた。

更には、何をするにもコールを求められ「一人でやってはいけない」「なぜ勝手にやるの?」などという詰問も受けてきた過去があるので、基本的には許可の無いことは確認してから行う様にしている。

ただ、だんだんと「申し訳ない」という気持ちは薄れ「そもそもされるか分からない(忘れられる)」「いつされるか分からない(忙しいのか?)」といった感情が大きくなってきている。

・ 待つことしか出来ない時間が歯がゆい
・ でも勝手にやると怒られる
・ 他のことが出来ない

こんなスパイラルに陥っていると、何かあっても話したくない気持ちが溢れてくる。…待ち時間の提示もなく、放置される身にもなってみて欲しい。

食事の膳に箸が無かったので依頼して放置される30分、入浴を促されてバスタオルが届くまでの40分、薬の内服変更によってただ待たされた時間…。

もう具体例を書いていてはキリがない。

忙しいのはコチラもある程度承知しているが、一言の思いやりや配慮がどれほど相手に必要かを忘れてしまっている…と思っている。

結局ナースコールを再度して別の看護師が来るか、「すいません。忙しくて…。」という当人の言い訳を聞かされるのいずれかが関の山である。

そもそも大事なのは「忘れない」ことではないのではないだろう。これを前提として、一歩進んだ配慮が欲しいと切に願う。「分かりました」よりも『いつまでに』やってくれるのかの一言が欲しい。

「…どれくらいの時間で持ってきてくれるんだろう?いや、そもそも忘れられないだろうか?」

こんな感情で毎度毎度看護師を待つのが、どう贔屓目に見ても常だとは思えないのである。

「忙しいからこそ、時間的な約束は出来ない」と高らかに宣言をしていた看護師もいたが、『忙しい』は水戸黄門の印籠にはならない。

箸を、バスタオルを、薬を、患部の処置を、点滴を『忙しい』という勝手な都合で待たされる患者の身になって考えてはもらえないのであろうか。待っている間は、本当に何も出来ない…。

▼ さいごに

「あまり書くつもりが無い」としておきながら、ずいぶんつらつらと書いてしまった。ほんの氷山の一角なのであるが、日常的にこの様なことは起きているのである。

特に『患者』としての経験をお持ちの方であれば、共感をされる場面もあるのではないであろうか?

ある程度達観している状態とは、心穏やかに過ごしている裏返しでもある。基本的に感情に左右されずに、口数も少なく過ごしていると私は「今の私」を評価している。

ただ、一方で一度どこかできっかけがあると、堰を切ったように溢れだしそうな脆さも孕んでいる様に感じる。

そうならない様に小出しにしている人もTwitterでは拝見しているが、私はそれを飲み込んで昇華出来る様に日々精進したい。

ろくさん


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