書評「測定基準に執着してないか問いかけてみる」(ジェリー・Z・ミュラー著『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』松本裕訳,2019,みすず書房)

はじめに

 いまやあらゆるところで成果が客観的に測定され、評価される。測定と縁のない人はいないと言っても過言ではない。測定結果はさまざまな意思決定の根拠となり、従うのが当然というきらいもある。
 もちろん測定は有意義な場合もある。一方で測定結果に違和感や不信感を覚えることもある。筆者はそのような想いから「測定を盲目的に信じること」を「測定基準への執着」と呼び、疑問を投げかける。
 会社のKPIや評価、政策根拠など、身の回りの測定に疑問を持つ人におすすめの一冊。

測定基準への執着

 筆者は一貫して「測定基準ではなく、測定基準への執着が問題」と主張している。つまり「測定されているものが測定するつもりのものの合理的な代理変数となっていれば問題ない」のだ。
 ただし正しく使わなければ、たとえば目につくものばかりを測定、測定結果を改ざん、もしくは測定するために過剰にコスト配分してしまうと、痛い目を見ることになる。
 そうした問題意識から、本書では測定基準への執着が生じる背景を歴史的に紐解き理論化する。後半ではビジネスをはじめ、学校教育や医療、政治の現場での測定ケースを見ていくことで回避方法を検討している。

過小評価されがちな測定の代償

 筆者が測定基準活用のきっかけに挙げたのが1862年のイギリスで、政府から学校への財政援助を教育結果に応じた支払いを基本とする方針へと転換したことだった。歴史的に見ると、実は当初から「測定基準への執着」は見られた。上記の財政援助は生徒のテスト結果と援助額を紐付けているのだが、「論理的思考を教えられずに、詰めこみ教育を受けている」のが実態だったようだ。このような現代でも見られる測定批判が、150年近く前から存在していた。
 歴史的に警鐘は鳴らされてきたが、今日でも同様の測定基準への執着が見られるのは、それだけ測定が魅力的なツールである証明だ。私たちは意識をしなければ、このツールのもつ代償を過小評価し、効能ばかりを誇大に捉えてしまう

測定による行動変容

 本書の後半ではケーススタディが展開されているが、たとえば経済的側面による大学のランキングを挙げている。大学入学コストと将来収入の投資利益率は合理的な数字として強力ではあるが、そこには大学で得られる満足感は測定から除外されているし、優秀な学生を給料の高い分野に誘導し人材が偏重する懸念があると指摘する。
 その他にはビジネスでの「短期主義」により長期的投資が犠牲にされること、実績連動型による従業員モチベーション向上の限界など、測定による行動変容の問題点を指摘しており、多くの人に共感される具体例を見ることができる。

おわりに

 ビッグデータの思想が広がり、技術的に測定できる範囲は広がっている。そんな中で私たちは簡単に「なんでも測れる」と思い込み、そして活用しようとしてしまう。だが測定することには代償が付き物だと認識し、測定基準に執着していないかを、立ち止まって考える必要がある。
 説明責任が当たり前のように求められる時代、客観的に見える数字こそすべてとも感じてしまう。しかし数字の裏には人間の意思決定が隠れていることは忘れてはいけないのだ。


いつもありがとうございます。サポート頂いた資金は書籍代に充て、購入した書籍は書評で紹介させていただきます。