見出し画像

【エッセイ】「顔が好き」は果たして悪なのか。

「久しぶりの投稿」という前置きをするたびに、なんだかろくでもないことを書いている気がするのは、この際置いておいて。
仕事以外でそれなりの文章を書くのも久しぶりなので、文体とか口調が定まらない気もするけど、そんな言い訳もほどほどに。

批判的な感想を持つ人は多いかも知れないけれど、わたしはルッキズムの鬼だと自覚している。とは言っても、別に指差して大声で人様を罵るわけはなく、ただただ「美しいモノが好き」という意味であって。つまりは面食いである。
でもそれは自分自身が「美しいモノ」に分類されるから、なんて大それたことを思っているわけでもなく、自分が可愛くもなければ美人でもないことは十分に理解しているし、周りからの反応も良いわけではない。というか、学生時代なんかは容姿を揶揄されることは少なくなかったし(まあ逆にそこまで悲観的というわけでもないので、一部の人間がとりあえずなんか悪口言いたかっただけなんだろうな、くらいの見た目だとは思っているけれど)。

そんな私が初めて目にした「美しいヒト」は、間違いなく実の母親である。家族という贔屓目はあるかも知れないけれど、これがまあ…大層美人で…。ハタチのときに私を産んでいるので、若さもあってのことだと思うけれど、幼稚園の友達のお母さんと比べてもとても綺麗で(ヒトと比べるところがルッキズムの良くないところだよな、とは思いつつも)。
人目を引く美しさを持っていると、幼稚園児とかそのくらい幼い頃から思っていた。

その次に印象的だった「見た目」に関するエピソードと言えば、小学1年生のときのクラスメートのK君。これがまた、とてつもなくイケメンだった。
でも小学校低学年の頃にモテる男子の特徴と言えば、「足が速い」だと思う。だから私以外に「顔」に注目している女子なんて周りにいなくて。ちなみに、K君が足が速かったかどうかすら記憶にないし、というか多分、どうでも良かった。
これだけの記憶なら、そこまで大きな出来事でもないと思うけれど、実は数年後に自分的にはとても面白いというか、感慨深いと思う出来事があって。
高校生、あるいはもう社会人をしていた頃だったかは忘れてしまったけれど、とにかくある程度オトナになってから、アルバムの整理をしていたら当時のクラスの集合写真が出てきて。
K君のことを真っ先に思い出したのだけど、「イケメンって言っても、小学生の頃の感性だしな~」なんて思いながら写真を見てみたら、オトナの目線で見てもK君が飛びぬけてイケメンに見えた。さすがに笑った。

その後も小学生、中学生、高校生…と年齢を重ねていく中でも、面食いであることは揺るがなかった。
ただ、「カッコいい」と感じる範囲は広かったので、今でいう塩顔の人も良いなと思えば、醤油顔の人も良いなと思うことがあるし、みたいな感じで、「カッコいい」と感じる顔と、「好み」の顔はしっかりと自分の中で区別されていた。もちろん、好みの顔=カッコいいと感じる顔の内、最上位に位置する顔、なのだけれど。

そしてその後、何年も私の心を縛り付けるほどの、とんでもなく好みの顔に私は高校生のときに出会ってしまった。
これがまた、イニシャルがKなのだけど、驚くことに苗字も同じイニシャル(笑)もちろん、同一人物ではない(笑)
このK君とは短い間だけど交際をしていて、別れたあとも「顔が好き」というのが大きな理由で、何年も引きずった。
ただ、これがとんでもなくクズで女たらしで。それでも「顔が好き」だけですべてが許せてしまっていた、私も若かったし…。
若かった、とは言っても、小学生の頃の可愛い恋愛とは違って、どんなにクズで女たらしでも、顔以外にも好きなところはいっぱいあった。いっしょにいて楽しいとか趣味が合うとか、友達思いだったりとか、他にも色々。だから、顔「だけ」が好きなわけではないんだけど、ベースはそこにある。
そんなK君に色々と振り回されながらも、楽しい思い出をたくさん作って、わたしの高校3年間は幕を閉じた。
嫌いになったとかでは断じてないけれど、色々あって自分の中で高校卒業を区切りと決めて、それ以降は一度も会っていないし、一度も連絡を取っていない。それは、アラサーになった今でも変わらずなのだが、20代半ばに突如としてK君のことを思い出す出来事が起こり、それは呪縛のようにわたしを悩ますのであった…。

というわけで、問題の20代半ば。具体的な年齢は忘れてしまった。小学生の頃よりもずっと最近の記憶なのに、あまりにも私にとって忘れたい過去だからだ。実際、こうして忘れている。(周辺の出来事を辿れば計算はできるけどね。)
20代半ば、私には配偶者がいた。でも、半年もったかもたなかったかくらいで、すぐに離婚した。
理由は相手のモラハラとか色々あったけど、そんなときに感じたのが、「顔が良ければ許せるのに」だった。
モラハラと言っても、わかりやすい暴言とか、ましてや暴力があったわけではない。ただ本当に、「モラルに欠ける」言動の数々。このとき、私の自己肯定感は地の底まで落ちていた。そのくらいのことは言われたとだけ。
まあもちろん具体的には思い出したくはないけれど、中にはほんの些細なこともあったと思う。だから、そんな「些細なこと」ならば、「顔が良ければ許せた」のだ。
そして、高校時代のK君を思い返してしまった。「あの顔なら許せた」と、思ってしまった。それは「未練」とはまた違う形だったけれど、ひどく私を悩ませた。まあ、私の勝手な思考なのは当時も今もよく理解しているけれど。

これは、前述した「顔『だけ』が好きというわけではない」という部分の補足になるのだけれど、「顔が良いから許せる」というのは、その好きな顔を思い浮かべることで、良い意味で芋づる式に、他の好きな部分も思い出せる、ということなんですよね。
「顔が好き。でも顔だけじゃなくて、こういうところとか、あんなところとか。なんだ、好きなとこいっぱいあるじゃん。じゃあこんくらいのことは目を瞑れるな。」みたいな結論が、一瞬のうちに脳内会議で生み出される。

反対に、「顔が良ければ許せるのに」というネガティブな感情を相手に対して抱けば、嫌な芋づる式に嫌いな部分がどんどん出てくるというもの…。

さて、ここまで私がいかに面食いかを語ってきたわけですが、この元配偶者というのが、私が今までで唯一顔以外で選んだ男性でした。
それは、交際を始めたばかりの頃は、とても素晴らしいことのように私は思っていたのですが、結論は前述の通り。
私の面食い度合いを知っている友達からはそれはまあ驚かれ、母親と弟にすら「本当に良いのか」と言われる始末。それは私にも相手にも失礼だと思うのだが。でもそれはもちろん、容姿の話だけをしているわけではなく、結婚する前からモラハラの片鱗というか、ちょっとした違和感みたいなものは友達も家族も覚えていたようで、そういう意味でも心配してくれていたのだとは言っておきたい。まあ、良くなかったよね。

それからというもの、私の面食いはさらに加速。その後好きになる相手も顔が良い男性ばかりだった。
だけどまた、好みではない男性にハマった。「ハマった」という表現をしたのは、相手が所謂「推し」だからである。
これはもうほんとに紙一重なところだと思うのだけれど、「タイプじゃないのにハマったら沼」とはよく言ったもので…。
過去のnoteを読まれるとバレる可能性があるので詳しくは言及しないのですが(まあバレる覚悟で書いてるけどね!)、この推しに至っては「顔」以外に「これさえあれば全部許せる」と思えるほど好きなところがあったので、顔とかほんと気にならなかった。たとえ性格が…これ以上は自重。
でも結局、「これさえあれば、と思える部分すらも度外視するほどに、許せない」と思うことが起きてしまって、降りてしまったのですが。
これに関しても、勝手に好きになって、勝手に嫌になったのは私、と理解しているけど。
でも、「顔が好きだったら、今でも好きだったのかな。ほんとに全部許せたのかな。」とふと思ったりして、ちょっと寒気がした。

そして現在。このnoteを書こうと思った理由の、また別の「推し」がいます。
その推しの一番好きなところは、ズバリ「顔」。
これまで出会ってきた男性の中で、一番私が好きな顔してる!!!
正直、例のK君より好きな顔には出会えないと思ってた。でも出会ってしまった。ビックリした。
もちろん今では顔以外にもたくさん好きなところがあるけれど、「顔が好き」は揺るがないし、それはもう声を大にして言っても良いと思ってる。まったく恥ずかしいことではない。
本人にも、まだ直接は言ったことないけれど、DMとかでは言ってる!!全然機会があれば直接でも言いたい!!
これは多くの先人たちも言っているけれど、恋愛感情を抱くときにやっぱりヒトって外見から入るし、顔が好みだともっとその人のことを知りたいと思うじゃないですが。実際、今までの私の経験上も、そう。
「顔が好き」というベースがあると、その相手を知れば知るほど好きな部分が見えてくるし・増えるし、もちろん中には嫌な部分とか苦手に感じる部分、合わないな、と感じる部分も出てくるけれど、「顔が好き」というベースが最初にあるかないかで全然違う!!!

とは言え、「顔」というモノも残念ながら決して普遍的なモノではなくて、子供が大人になればもちろん顔が変わるし、大人だって年をとれば徐々に見た目も老いていく。
それでも必ずどこかに、面影というか、少なからず変わらない部分があって。

ルッキズムの話題を耳にするたびに、あるいはふと自分の中で考えるときに、いつも思い出すのが、藤井隆さんのエピソード。
藤井隆さんは堂々と顔主義と言っていて、乙葉さんの顔が大好きで、喧嘩をしても可愛い顔を見ていたら、喧嘩がどうでも良くなる、と。結婚して十数年たった今でも、乙葉さんの顔が好きと言っている。素敵すぎる。
このエピソードを思い出しては、私も、十数年、あるいはもっとそれ以上に長い年月を、ずっと共にしていても変わらずに「この人の顔が好き!」と言えるような相手に出会えたら良いな、と思ったりなどする。

それは別に、生涯を添い遂げる相手ではなくても、ひとりの「推し」であっても良いのではないか、と今は思っている。
「これまで出会ってきた男性の中で一番好きな顔」と思える相手を、できるだけ長く推していけたらな、と。
まあ、もしかするともっと「この顔!!!」と思うような男性に出会っちゃうかも知れないし?「推しの顔より好きな顔の男性なんてもう絶対にいない!」なんて言い切ったりもしないけれど(そう信じていた前例があるので余計に)、今この瞬間は誰よりも間違いなく推しの顔が大好きだし。

何度も言い訳するんですけどね、だからってほんとに「顔」しか見てないわけではなくてですね。顔だけでここまで急激に沼れないです。(実はまだ、知ってからやっと1年くらい、ライブに通い出してからは半年経っていないほどのド新規だったり。)
顔以外の好きなとこ語ると、このnoteの収集つかなくなっちゃうくらいには、好きなところいっぱいありますよ。

それでも、顔が好きって、悪とされることでしょうか。なんていう、タイトルを回収する形で締めさせていただきましょう。


空き缶

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?