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大阪には岸和田が二つある。

9月の16/17日は大阪府岸和田市でだんじり祭りが開催されます。そこで便乗企画・・・という訳でもないのですが、前々から気になっていて調べてみたものが現時点である程度まとまってきたので公開してみます。


古代には湖底だった大阪

自分は世間的にはだんじり祭りで有名な大阪の岸和田市に住んでいるのですが、最近びっくりしたのが大阪府門真市にも「岸和田」があるという事に気づいたことです。

同じ大阪とはいえ、全く違う場所に漢字まで同じ二つの場所。一体どんな繋がりがあるんだろうと思い、自分で可能な範囲で調べてみることにしました。

まずは門真市の岸和田について、もともとは「岸和田庄」という荘園だったことが地名の由来だそうです。

もともと門真市を含む河内平野、大阪平野は淀川と大和川二つの川の水が流れ込む河内湖という巨大な湖でした。その周辺には二つの川から運ばれる土砂が堆積し、砂州と沼地が混在する広大な沼沢地が出来ました。

この草香江と呼ばれる地域は水と肥えた土に恵まれた巨大な穀倉地帯となった半面、湖が出来るほど水量が流入するにもかかわらず、その出口は上町台地北端。現在の新大阪から江坂付近の一か所しかないため水害に見舞われることも少なくない危険地帯でした。

縄文時代の河内湖の大まかなイメージ図
大和川は羽曳野から北上して河内湖に合流し、
しかも水の出口は一か所しかありませんでした。

古墳時代から行われた治水事業

古墳時代となる4世紀ごろ、権力を確立しつつあった大和朝廷の仁徳天皇が難波宮を造営した時に治水工事として砂州を開削、難波の堀江という排水路が築かれ、その後の時代に大規模な干拓工事が行われ湖は縮小。陸地化した場所が天皇家直轄の食料生産地。皇室領大江御厨となりました。

時代が進んで平安時代になってくると河内湖はほぼ消滅し、深野池(ふこのいけ)と新開池(しんがいけ)という二つの巨大な池に分かれる(それでも周辺に漁村ができるほど巨大な池だった)のですが、荘園制度による農耕地の管理が進んでくると、時代に合わせて寺社の荘園として払い下げられていきます。

(直轄領 ・・・ 律令制が荘園制に変化していったいきさつは長くなるので今回は割愛で)

門真市岸和田の弁天池公園にある復元された環濠水路
難波の堀江もこれに似たものだったと思われる。

寺社領として払い下げられた直轄領

平安時代末期の1160年。前年に勃発した平治の乱で政治的ライバルの二条天皇(と真の実力者平清盛)に事実上の敗北を喫した後白河上皇は京都に新日吉神社を創建しました。
失脚したも同然の後白河上皇は政敵に対して、自分はもはや政治に関心はなく、宗教行事に専念していることを示す必要があったのです。
(後年上皇は復活しますがそれはまた別の話という事で。)
この時、皇室領大江御厨の一部、深野池の西岸地域が寄進され寺社領になったのが岸和田庄でした。

ここから先は、資料が見つからず推測になってしまうのをご容赦ください。この地が「岸和田庄」という名前になった理由を深掘りすると岸和田庄の北西、同じ門真市に「京阪大和田駅」が存在します。

今となっては「大和田」はこの駅名にしか見ることはできませんが、大和田駅を含む常称寺町から南は北町のあたりまでの地域は戦後の昭和30年ぐらいまで大和田村と呼ばれていた場所で、ここも古くは大和田庄という荘園でした。

大和田庄から見て南東、深野池の西岸にできた荘園なので「岸和田庄」になったという事ではないかと思うのですが、ここに関する詳しい資料が見つかりませんでした。
ちなみに大和田庄を所轄していたのは平氏一族の池大納言家だったそうです。自分で調べた限りではこれ以上の資料は発見できませんでした。どなたか岸和田庄についてより詳しい情報をお持ちの方がいましたらコメント欄にでも一言情報をいただけると大変助かります。

門真市岸和田にある産土神社にある由緒を刻んだ石碑
創建時期は不明とあるが、新日吉神社の寺社領だった地域の神社にしては、ご祭神が異なる
(新日吉神社のご祭神は農耕神の大山咋神)

大阪府公認の和田高家築城説

次に泉州の岸和田市についてです。

昔の岸和田・・・というより岸和田も含めた泉州地域は当時の中心地から離れた辺境であることもあり、泉州地域全体まとめて「和泉国」と呼ばれて人も産業も流通もない空白地帯だった時代が長く続きました。門真の岸和田が確立されていた当時、岸和田市に該当する地域は沿岸部が「岸」。行基が開いた久米田寺などかある内陸部は「山直」「八木」、和泉葛城山に至る山間部を「長滝」という地域に分かれ、長らくこの状態のままなのが続きました。

南北朝時代(14世紀)、楠木正成に連なる一族の和田高家が「岸」の地に最初の砦が作り、これが岸和田城の原型(岸和田古城)となり、このころから和田高家とその一族を「きしのわだ殿」と呼ぶようになり、いつしか地名として定着した。と言われてきました。

このいきさつが記録されているのは江戸時代に書かれた『泉州志』と呼ばれる郷土史です。この書で岸和田古城のあったとされる地・・・現在の南海岸和田駅の南東。岸和田市野田町。現在は完全に住宅地になってしまって昔の面影は見るべくもないのですが、戦後かなり経過した時点でも日照山と呼ばれる小高い丘のような小山があり、地元の人はここに「きしのわだ殿」が最初の城を作ったという言い伝えが残っていたそうです。

大正十年。大阪府はこの言い伝えに基づいてここに岸和田古城跡の石碑を設置し、これは現在でも残っています。さらに平成の時代。2006~2007年にかけて発掘調査が行われ、中世代の城郭跡が発見されています。

岸和田古城跡の石碑
側面に「大正十年 大阪府」と刻まれている。

和田高家は実在の人物か?

ただし、発掘品からは和田高家が築城したという確実な証拠は発見できませんでした。また年代的にもどんなに古くても15世紀後半(1450年以降?)と推定され、和田高家が生きていた南北朝時代(14世紀)には達しないという結論が出ました。

現存する書状などからも岸和田古城が15世紀以後になって完成したと思われる事を裏付けています。南北朝時代(14世紀)に和田高家が岸和田城を作ったとする記録は『泉州志』だけですが、これが書かれたのは18世紀の1700年ごろ(江戸時代)。対して、16世紀の1558年に根来僧と泉佐野の領主との間で交わされた手紙の中に「岸和田城」の記述が現れるのを皮切りにいくつかの文書で岸和田城の名前が登場するようになり、15世紀以前には岸和田城が存在しなかったことが示唆されています。

さらに和田高家その人についての出自がはっきりしないという致命的な問題があります。楠木正成とはの親戚筋の氏族とされ、1348年に発生した四条畷の戦いにおいて戦死したとされていますが、この戦いを詳細に記録している『園太暦』には和田高家の名はなく、『泉州志』にのみ現れる人物となっています。

城を作れるほどの実力者だったとしたら、『泉州志』以外、例えば楠木正成が関わった戦いを詳細に物語っている『太平記』などに記録があってもよさそうなものですが、本編では見当たらず、毛利家に伝わる写本の中に「それらしき人物(和田賢秀の弟とされている)」が伝わるのみとなっています。

岸和田古城跡石碑の周辺
今は何の変哲もない住宅地になっていて「日照山」は影も形もない。

より確かな実績を携えた人物「きしみきた」

和田高家「きしのわだ殿」が岸和田を作ったという話は江戸時代からの言伝えでした。その後の明治時代、岸和田の由来となる来歴を持つ人物が現れます。

その人物とはそのものズバリの「岸和田」を名乗る一族。岸和田治氏(きしみきた・はるうじ)と呼ばれる南朝の武将です。

もとは和泉国大鳥郡和田郷を支配していた和田(みきた)氏からの分家で、和田(みきた)氏に伝わる『和田文書』(みきたもんじょ)に詳細な記録が残っており、その意味で和田高家とは違って実在は確実視されています。

楠木正成とともに湊川の戦いに参戦しながら数少ない生き残りとなり、その後も南朝の武将として京都、堺、羽曳野、藤井寺など主に泉州地域で度々足利方との戦いを繰り広げ、最後に「岸」の地に落ち着いて拠点となる新田を開発。これがのちに「岸和田荘」と呼ばれる荘園になります。

これが事実なら岸和田市は「きしのわだ殿」ではなく「きしみきた殿」が作ったことになり、岸和田市の読みも「きしみきたし」になるはずです。なぜこんな違いが発生したのでしょうか。

現在の岸和田城は昭和29年に鉄筋コンクリートで復元されたもの。

混乱に拍車をかける二つの「和田氏」

岸和田治氏の「きしみきた殿」。和田高家の「きしのわだ殿」。本家はどちらも「和田」と書くのに一方は「みきた」、もう一方は「わだ」。全く同じ名前なのに両者は一切関係ない全く異なる氏族です。

和田(みきた)氏:和泉国大鳥郡和田(みきた)郷の豪族。和泉和田氏とも呼ばれる。

和田(わだ)氏:楠木氏直系の橘氏流和田氏。河内和田氏とも呼ばれる。

この二つの和田氏、全員という訳ではありませんが、どちらも楠木正成に従って南朝につき、北朝と戦っているのがややこしさに拍車をかけています。

どうやら味方同士でも紛らわしかったようで、現存する書状でもひらがなで「みきた殿」「わだ殿」と書き送って混乱を避けていたようです。(ここではこれを見習って以後は和泉和田氏を「みきた殿」。河内和田氏を「わだ殿」と呼ぶことにします。)

歴史の闇に消えた二つの和田氏

南北朝時代は後の戦国時代に勝るとも劣らない激動の時代で、お互いに生き残るために裏切ることも当たり前でした。二つの和田氏が付いた楠木氏からも楠木正儀が北朝についたかと思えば再び南朝に出戻るといった世渡り術を発揮しています。

一族を北朝、南朝両方に送ってどちらが勝ってもよいように保険を掛けるといったことも普通に行われており、「みきた殿」はこの方針をとって北朝、南朝の両方に氏族を振り分けていました。

結果的にこの生き残り政策は成功し、1392年に両朝が南北朝合一にて和睦した際、和泉国守護となった大内義弘から和泉国和田(みきた)荘の下司職を賜っています。

もちろん、このようにうまく世渡りできなかった氏族も多く、「わだ殿」の方はなまじ楠木氏直系であったのが災いしたか、湊川の戦いで一族のほとんどが正成と運命を共にしています。

ごく一部の「わだ殿」。当主の留守を預かるため、湊川には不参加となった楠木正成の甥。和田賢秀と和田正武(こちらも出自は不明)が生き残りますがその後も南朝方について戦い続け、四條畷の戦い(1348年)にて矢尽き刀折れ、敵将に嚙みついて果てるという壮絶な最期を遂げます。

事実上の大阪府公認となる和田高家はこの和田賢秀の弟とされ、四条畷の戦いでともに戦死したとされているので、岸和田古城は1348年以前に作られていなければなりません。

最後の「わだ殿」和田正武が記録に残るのは1382年まで。10年前の1372年までは南朝の仮皇居となっていた「女人高野」金剛寺を守っていましたが、楠木正儀の裏切りにより金剛寺より敗退、捲土重来の途上にて病死したとされ、以後「わだ殿」は歴史の表舞台から姿を消してしまいます。

一方生き残りに成功したかに見える「みきた殿」ですが、次の戦乱期、戦国時代のごく初期には「みきた殿」和田助高の活躍が見られるものの、江戸時代にはその名を見ることは無くなってしまいます。

こうして二つの和田氏、「みきた殿」も「わだ殿」も歴史の闇の中に飲み込まれていき、なぜか岸和田には「きしのわだ殿」和田高家が岸和田を作った。という言い伝えだけが残り、岸和田治氏の名は完全に忘れ去られたかに見えました。

生き残っていた『和田文書』

真実は意外なところから明らかになります。なんと鹿児島に「みきた殿」の生き残りがいたのです。

鎌倉時代の一時期、和田(みきた)荘の地頭職を鹿児島の島津氏が務めていた時期があり、これを伝手に鹿児島に脱出していた「みきた殿」の一族がいたのです。

彼らは一族に伝わる『和田文書』も大切に守り続け、明治維新以後に東京大学に写しを寄贈、ここから岸和田治氏と岸和田荘の実在が判明するとともに「みきた殿」各氏の動向も明らかになり、南北朝時代の貴重な資料となりました。

現時点では大阪の二つの岸和田に何らかのつながりがあったとは見えません。

また、岸和田市の始まりとなった「和田氏」には源流が全く異なる二つの「和田氏」が関わっているものの、現在はどちらの氏族もほぼ断絶してしまったようで、和泉和田氏「みきた殿」が伝えてきた『和田文書』以外に彼らの様子を伝える記録はほぼ残っていません。

このまま真相は歴史の闇の中に永遠に失われるのか、『和田文書』につづく新たな真相を語る記録の出現に期待したいところです。

だんじり祭りだけでなく、桜の季節には桜祭りも開催されます。
みなさんぜひ岸和田に。

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