見出し画像

2-1 エラリー・クイーン『Yの悲劇』


エラリー・クイーン『Yの悲劇』The Tragedy of Y 1932
 一九三二年と三三年は、クイーンの最も充実した制作時期だった。もう一つの筆名を使って悲劇四部作も発表している。クイーンは合作ペンネームだから、二人二役となる。
 悲劇四部作の探偵役は、引退したシェイクスピア劇の俳優。事件は彼の晩年に起こる。彼はいわば四作のみで使い尽くされるヒーローだった。『Xの悲劇』32、『Yの悲劇』は、クイーンの代表作であるだけでなく、古今の名作リストの上位にくる。この二作を前編として、『Zの悲劇』33、『ドルリー・レーン最後の事件』34は、レーン探偵の退場編となる。そこで描かれるのは、ヒーローの悲劇だ。彼は敗北するだけでなく、推理機械としての自らの特権をも解体されて、訣れを告げていく。前兆はすでに『Yの悲劇』に描かれていた。最後に演じられたのは、より念入りな悲劇の再演だった。
 それは早く提出されすぎた悲劇の予告とも考えうる。
 『Yの悲劇』は、憎悪渦巻く異常な一家の屋敷内で起こる連続殺人をめぐって展開する。その意味のみでいえば、『グリーン家殺人事件』を継承したオーソドックスな謎解きミステリの結構に収まっている。収まらない要素は、じょじょに姿を見せてくる。一は、一家の(死亡したはずの)一人がミステリの腹案を残していたこと。二は、その殺人プロットが意外な形で利用されたこと。三は、探偵がすべての真実を自らの胸に隠してしまったこと。これらは、『Yの悲劇』を『グリーン家殺人事件』をはるかにしのぐ傑作とするのに貢献している。しかし特に三の要素は、ミステリの原理にたいする重大な逸脱だった。のみならず、それはヒーローの悲劇を決定づけてしまう。彼は探偵であることの自己矛盾に突き当たる。ヒーローたりえない探偵とは、ミステリにおいて何者なのか。この問いを悲劇四部作は内側にかかえこむことになる。展望ある回答は見つけられそうもなかった。
 探偵の敗北という偏執的テーマは以来、クイーンの創作から離れなくなる。それは、エラリアーナを無邪気に信じることができていた青年エラリーにも、容赦なく取り憑いていくのだった。
 アメリカの重要な作家は、一般に早く朽ち果てるが、クイーンは例外的に長く安定した活動を残している。安定した、とは表面的な意味であって、苦悩はいくつかの作品に明瞭に表われている。息の長さは、彼の苦悩に抗う力の強さを示している。
 ハメットの悲劇は、いわばページの余白に浮かび上がってくる体裁のものだ。クイーンのそれは本文に刻まれている。
 彼の悲劇は「アメリカ人であること」に関わっている。アメリカでミステリ作家であることに、である。問題は多くのアメリカ作家に取り憑いて、彼らの意気を阻喪させていったが、ミステリ作家のケースでは、クイーンが初めてだろう。だれもその問題から免れる者はいないのだが、立ち向かう者、立ち向かえ得る者はきわめて稀なのだ。

『Yの悲劇』 鮎川信夫訳 創元推理文庫 1959


エラリー・クイーン『Yの悲劇』  宇野利泰訳 世界推理名作全集9 中央公論社 1960.7
 この一冊、このシリーズ、この造本。
 この巻は、他に、「神の灯」 「気ちがいパーティ」  「ひげのある女」 「首つりアクロバット」  思えば、すべてはここから始まった。
 129p ルイザの陳述 143p ヴァニラの匂い  168p 実験室の椅子を動かした跡  この三点から犯人は明らかであると直観してしまった。
 これを「何の悲劇」と称するべきか。
 『北米探偵小説論』増補決定版(インスクリプト)248p-258p参照

他の翻訳
バーナビイ・ロス『Yの悲劇』 井上良夫訳 春秋社 1937
『Yの悲劇』 井上良夫訳 新樹社ぶらっく選書 1950
『Yの悲劇』 大久保康雄訳 新潮文庫 1956
『Yの悲劇』 砧一郎訳 早川書房HPB 1957
『Yの悲劇』 鮎川信夫訳 創元推理文庫 1959
『Yの悲劇』 宇野利泰訳 中央公論社 1960
『Yの悲劇』 鎌田三平訳 集英社文庫 1998.1
『Yの悲劇』 越前敏弥訳 角川文庫 2010.9
『Yの悲劇』 中村有希訳 創元推理文庫 2022.8

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?