アリアに出でにし -Aria can't keep my secret-
昼間は春の陽気でも、放課後の音楽室は肌寒い。窓の外には青い空と白い雲が浮かんでいる。グラウンドの向こうには、道路を挟んで小さな公園が見えた。
前奏が始まった。私のメロディを待っている。すっと背筋を伸ばして振り返る。ストラップにかけた楽器に手をかけ、静かに運指を確認する。そして、ゆっくりとリードを口に運び、息を吹き込んだ。
光風がやってきた。私の心にとどまるように
『緑のクジラ公園』――それが私のステージ
舞台の上で軽やかに歌おう
超えていく――遥かなるあの雲を
私は歌った。これは比喩ではない。この『アリア・ウインド』は、心を歌い上げてくれる。
*
「それにしても面白い楽器だよな」ナツキがアリア・ウインドを指差した。「見た目はサックスのくせに、なんで歌が出てくる?」
面白いことは間違いない――心に浮かべた歌詞がそのままカップから流れるのだから。
それよりナツキの柔らかいキーボードのほうが凄いと思う。従来の鍵盤楽器にはできない残響や中間音の変化を自在に操り、私を導く。
「僕のベースは目新しさがないから、羨ましいよ」
今度はトウマだ。確かに電子ベースはクラシックのコントラバスから劇的な進化はない。それでも彼の優しい低音は不可欠だ――私を支えてくれる。
「同じような歌声変換が弦楽器でもできるようになるって聞いたぜ」
知らなかった。管楽器だけの特別なものだと思っていたのに。
「それはヴァイオリンだけの話だよ」トウマが首をすくめた。
「じゃあ、トウマ様の美声が聞けるのは、まだまだ先かあ」
ナツキのおどけた発言に、三人で笑った。私はこの空間が好きだ。いつまでも続けばいいと思う。けれど、時間はやっぱり限られていて、高校生活の最後のコンクールが近づいている。
*
演奏の振返りとなった。悪くはないが、しかし――とも思う。口火を切ったのはナツキだ。
「ハルカ、この曲、どうにかならね?――これってラブ・ソングだよな?」
痛いところを突かれた。
「僕も思った。ハルカさんの歌は情景とかは、ハッとするくらい素敵なんだけど――恋の歌になると――なんというか……」
「陳腐なんだよな」トウマが包もうとしたオブラートを、ナツキがすぐに破った。「『会いたい』とか『さみしい』だとか――上っ面すぎるだろう」
「安易に他人のフレーズを入れないほうがいいとは思う」
二人の言っていることは間違っていない。でも、彼らはこの楽器――アリア・ウインドのことはわかっていない。奏者が心をオープンにすれば、呼応した歌が鳴る。しかし、どこかでブレーキをかけないと、そのままの気持ちが歌詞になって溢れ出てしまう。この楽器の前では嘘はつけない。たとえそれが、秘めたる想いだとしても。
押し黙ってしまった。空気が重い。こんな雰囲気を変えてくれるのがナツキだ。しかし、今日は彼らしくなかった。
「まあ恋愛とは無縁のハルカには無理かもな」
普段なら平気な軽口が、今は気に障る。
「例えばだけど、ハルカさんも誰か気になる人はいないのかな。少しだけ、その人のことを思って歌うのはどうだろう?」
トウマの提案にどきりとした。鼓動が少しづつだけど、確実に激しくなってくる。
「それいいじゃん!ハルカにスマートな愛を歌うことはできないだろうけど、お子様な恋でも全然マシになると思うぜ」
「ナツキ、それは言いすぎだよ」
止めに入ったトウマをナツキが見返した。痺れるような緊張が二人の間を走った。
「俺だって真剣なんだ。トウマは手厚すぎるんだよ……そうだ!だったらそんな優しいトウマのことを想って歌ったら?」
――ねえ、お願い。それ以上言わないで。顔が紅潮するのがわかった。
「いつも守ってくれるトウマへの想いは、きっと大曲になるぜ?そうでなくても……」
「いい加減なことを言わないでよ!」――自分でも驚くような声量だった。
*
「少し落ち着こう」と、トウマがナツキを連れて場を外してくれた。トウマの気遣いは助かる。それにナツキだって意地悪で言っているわけではない。少しでも良くなるようにと、きっかけを与えようとしただけだ。
気分を変えよう――無造作に窓を開けた。吹き込んだ強い風が譜面台の紙を飛ばした。
――いけない。散らばった楽譜を戻したときに、クリアファイルに挟まれた淡黄色の冊子に目が留まった。昨年のコンクールのパンフレット。そういえば――と、手にとって裏表紙を見る。
『来年こそは金賞を!』
『3人で音楽をいつまでも』
そこに続くのは、よく見慣れた私の字。
『素直に、自分の心に正直に』
――何をためらう必要があるだろうか。私の――今の17歳の想いは、決して恥ずかしいものではない。
すっと立ち上がり、アリア・ウインドに手をかける。まだ鼓動が早い。不安と緊張を少しずつ落ち着かせた。
私は――私の心を吹き込む。
恋はホイップクリームのように甘いって言ったのは誰?
少しだけ私の気持ちを聞いてほしい
カップ・ケイクス
いつも2つの小さなケーキを眺めていた
プレーンに色とりどりのデコレーション
ショコラに香ばしいチョコチップ
本音を表現するのはやっぱり怖い。イヤな女だと思われないだろうか。――それでも嘘はつけない。素早いパッセージを増やしていく。心と楽器のシンクロがわかる。ハイトーンで高らかに歌った。
2つは贅沢だってわかっている
私の胸がちくりと痛む――このままでいいのかと不安になる
カップ・ケイクス
それでも『2つが揃って幸せ』って――私はそう思う
どちらかが欠けてはいけない。この空間が愛おしい
だから今は見つめることしかできない
甘い声が中空に舞った。私だけが奏でられる歌だ。
*
夕暮れを迎えた音楽室の扉の前で、彼らは並んで座っていた。
「このバンドをずっと続けたいって――心から思う」
少しの間をおいて「……そうだな」が続いた。春茜の空が二人を照らした。
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