アイ

「なんでもやってもらえるのが、当たり前だと思ってるんでしょ?」

「別にそんな風に思ってないよ。」

 これまでの人生、実家から出たことのない二十代半ばのI子。大学も二時間かけて実家から通い、社会人となった今も実家からの車通勤だ。そんな娘の生活態度に、母親は時々爆発した。

「お母さんは、家政婦じゃありません。」

「だから、そんな風に思ってないし。」

「どうせ一人じゃ、何もできないくせに。」

「は? できるし。」

 母娘は似た者同士だ。一度ヒートアップすると、手が付けられない。父親はすぐ近くに居ながらも、何も聞こえないふりをしてテレビを見ていた。

「だったら、部屋でも借りて、全部自分でやってみたら? まあ無理だろうけど。」

「はいはい、わかりました。頼まれなくても、こんな家、出ていきますよ。今までどうも、ありがとうございました。来月から、私が家に入れてた五万円は、無くなりますので。」

 正に、売り言葉に買い言葉だった。


 あのケンカから迎えた初めての週末。いつもなら日頃の疲れを癒すために、のんびり好きなことをして過ごす。しかし、今週末は動かなければならない。女の意地とプライドをかけて。

「不動産屋に行ってきます。」

 茶の間にいる両親にそう告げ、腰を下ろしてゆっくり靴を履く。何かを待っているような、何かを期待しているような空気。しかし、人の動く気配は一切ない。I子は、「甘え」に傾きかけていた気持ちを抹殺すると、未練を断ち切るように勢いよく立ちあがった。しばらく歩いていると、

「ブーブーブー。」

「いまさら考え直してって言われても、遅いし。」

 そんなことを呟き、はにかんだ表情を見せながら、I子はカバンから携帯を取り出した。電話は父親からだった。

「不動産屋さんって、お前、ほんとに家を出ていくつもりなのか? 先週のことは、何も心配するな。母さんも、じきにいつも通りになるさ。」

 父親の気持ちはありがたく、心配をかけていることは申し訳なかった。しかし、今のI子の頭には、「VS母親」の構図しか描かれていない。

「なんでお母さんは、何も言って来ないのよ。絶対に、一人暮らしできることを証明してみせる。」

 

 こうして成り行きで決まってしまった一人暮らし。すぐに物件も見つかり、引っ越しまでとんとん拍子に進んでいった。

「ご苦労様です。ありがとうございました。」

 新居への荷物の搬入が終わり、気持ちよく動いてくれた作業員の背中を見送った。

「さてと……。」

 積み上げられた段ボール箱に目をやる。I子の口から漏れるのは、ため息ばかりだ。しかし、この土日に生活必需品の荷解きを終わらせなければ、来週の生活に支障を来す。避けることのできない作業を目の前に、悪あがきを続けるI子。と、携帯が目に付いた。

「ダメダメ。手伝ってなんて言ったら、お母さんの思う壺。私にもちゃんと、生活能力があるところを見せつけてやらないと。」

 これまでずっと実家暮らしを続けてきたI子は、事あるごとに母親に甘えたり、泣きついたりした。おまけに一人っ子だったので、多少甘やかされていた部分はある。いずれにしろ、母親の力なくしてI子の生活が成り立たなかったのは、事実だ。I子は携帯を手に取ると、父親と母親宛てに「引っ越し、無事に終わりました」と短いメールを送った。驚いたことに、携帯を机に置くか置かないかのタイミングで、返信があった。母親からだ。何歳になっても、子どもは子ども。I子の中で「甘え」の気持ちが膨らんだ。

「わかりました。」

 それだけの返信だった。

「なにこれ? 意味不明に他人行儀な言葉遣いだし。一言だけだったら、別に送って来なくていいし。ケンカ、売ってんの?」

 母親からのメールが、I子の負けん気に火をつけた。自身も不可能に感じていた目の前の段ボール箱の山が、気付けば残りわずかとなっていた。

「あと少しだ。」

 ゴールが見えてきたことで、I子のやる気はさらに増し、なんとその日のうちに必要最低限の荷解きは終わった。


 新しい一週間の始まりだ。一人暮らし三日目ということで、今日も普段よりは早く目覚め、無事に朝食の準備を終え、時間をかけて胃袋に収めた。洗面所で歯磨きをしながら、I子は家に足りないものを考えていた。蛇口からは水が絶えず出ている。口をゆすごうとしたときに、I子は感じた。

――今までなら、「もったいないでしょ、使わないときはちゃんと水を止めなさい」っていう声が聞こえてきたのに。一人だと、何も言われない。

 また別の日に、I子は冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、いつもの癖でそのままラッパ飲みした。

「プハーッ。」

と喉越しを楽しんだ時、I子は感じた。

――今までなら、「アンタだけの牛乳じゃないのよ。ちゃんとコップで飲みなさい」って言われてたのに。

 ある朝起きると、トイレの電気が付けっぱなしだった。電気の消し忘れは、昔からI子がしばしばやってしまうことの一つだ。I子は感じた。

――今までなら、「電気代、いくらかかると思ってるの!」って怒られてたのに。一人暮らしって、全部自分の自由。誰にも何にも言われない。

 これまでだと小言を言われていたようなことも、自分の好きなようにできる。いちいち文句を言われたり、ケチをつけられたりしない生活。I子は解放感に浸っていた。

そんな生活が一か月ほど続いたある金曜日、I子は仕事帰りに大量のお酒とおつまみを買い込んだ。そして以前から見たかった映画のDVDを何本も借りた。今週末はお酒を味わいながら、一人映画鑑賞に没頭する計画だ。いよいよ上映というときに、父親からのメールを受信した。この一か月、父親は週に一度ほど連絡をくれた。

「元気にやってるか? 困ったことがあれば何でも言うんだぞ。時間があったら、元気な顔を見せに帰ってきてくれ。みんな待ってるぞ。」

「少し仕事が忙しいから、時間ができたら帰るね。みんなによろしく。」

 I子は一人っ子で、家族三人での生活が二十数年間続いていた。「みんな」といっても、そこに含まれるのは、たった一人だ。

 仕切り直してDVDを再生した。期待通り、スリルとサスペンスに満ち溢れたストーリーで、あっという間に一本見終わった。まだまだ夜はこれからだ。I子は続けて二本目をスタートさせた。

 気づくと、ワインボトルが二本、空になって床に転がっているのが視界にとびこんできた。

「イタッ。」

 ひどい頭痛。昨晩はDVDを見ながら、調子に乗ってワインを二本も空け、そのまま酔いつぶれてソファーで眠ってしまったようだ。外は既に明るくなっている。頭が痛いだけでなく、体もだるいし、なんだか熱っぽい。I子は久しぶりの二日酔いに、自己嫌悪に陥った。そして、鉛のような体を引きずりながら、ベッドまで移動し、布団にもぐりこんだ。

 お昼近くに、I子はもう一度目覚めた。寝返りを打つと、相変わらず頭痛がする。そして寒気も感じた。念のためにと熱を測ると、体温計は「38℃」を示した。二日酔いに加え、どうやら風邪もひいてしまったようだ。薬無し、食べ物無し、飲み物無し。こんな時、誰かそばにいてくれたら、心強いのに。そんなことを思ったが、このまま寝ていても埒が明かない。I子は着のみ着のままで一番近くのコンビニエンスストアへと向かった。そこでスポーツ飲料やゼリー、栄養ドリンクなどを購入し、すぐに自宅へ戻った。あまり食欲がない。少しだけ口にして、再びベッドに横になった。

 I子は、寒くて目覚めた。窓から見える空が茜色ということは、夕刻だろう。昼間に比べて良くなっているどころか、悪化さえしている感覚だ。お昼の時点できちんと薬を飲んでおけばよかった、とI子は後悔した。そして、フラフラの状態ながらもドラッグストアへ行き、風邪薬と食料を少し買った。薬を飲むには何か食べなければならない。そのために、お湯を注ぐだけで簡単に作れるお粥を買った。これなら食べられるだろうと思ったが、一口でギブアップ。全く食欲がない。仕方がないので、そのまま薬を飲み、布団に入った。

 翌朝、スッキリ気持ちよく目覚めることを望んでいたが、何ら変化が見られない。頭が割れるように痛い。体中がきしむ。唾を飲み込むだけでも喉が痛く、咳や鼻水まで出る。I子は突然心細くなった。

――何か悪い病気なのかも……。

 たった一人、風邪、食欲がない、全ての要素がI子をどんどん不安にさせた。そして

I子は……。


「もしもし? 一カ月、よくがんばったわね。そろそろお母さんの小言が恋しくなったんでしょ?」

 受話器の向こうからは、今まで通りの母親の温かく優しい声が聞こえてきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?