トリ男

「これって、ただの飾りでしょ?」

「我が家では、合うサイズの物を探して、湯飲みのふたにしてるわよ。」

 昼下がり、近所の奥様方が一人、また一人と自然に集まり、井戸端会議がスタートする。いつも同じ場所だ。

「信じられないような話を耳にしたんだけど、風鈴って、その昔、自ら音を奏でてたんだって。」

 背の高い女性が、声を潜めて周りに語る。

「えっ? 風鈴って、元々生きてたの?」

「なにそれ? 超能力?」

 周りの奥様方は、軒先の風鈴に視線をやりながら、不可思議な表情を浮かべた。と、メガネをかけた女性が何かに気付く。

「ねえ見て。トリ男、また変な物付けて、走ってるわよ。」

 彼女たちの遠い視線の先では、トリ男と呼ばれる男が必死に走っている。もちろん本名ではない。鳥のように飛びたいと本気で考え、来る日も来る日もトレーニングしているので、陰でそう呼ばれていた。トリ男は今日も、お手製の翼を手に、トレーニングに励んでいる。脚力と腕力を極限まで鍛えて機が熟したら、山の上から飛び立つつもりだ。

「人間が飛べるわけないのに。」

「変な人の相手はしないほうがいいわ。」

「トリ男って、どんな顔してるのかしら。」

「毎日よく飽きないわね。」


 時は流れた。

「ねえ、知ってた? 昔は『タコ』っていう言葉には、二つの意味があったそうよ。」

「一つは今と同じ、食べるタコでしょ? もう一つは?」

 小太りの女性の口から答えが出てくるのを、周りの女性たちは静かに待った。

「子供の遊び道具に、タコっていうのがあったらしいのよ。空に浮かべて遊んだんだって。」

「えっ? モーターが付いてたってこと? それならラジコン機やドローンと同じよね?」

「動力は一切使わなかったっていう話よ。しかも、素材は紙と竹だったらしいわ。」

「へー。昔は想像もできないような遊び道具があったのね。昔っていえば、風鈴、ほとんど見かけなくなったわね。私たちが風鈴の話をしたのって、一年くらい前かしら?」

 彼女たちは少し寂しげな表情で、軒先に吊るされた風鈴を見つめた。

「トリ男、なんだかんだ言っても、よく続いてるわね。」

 彼女たちの遠い視線の先には、今日もトリ男。本意ではないだろうが、彼女たちは、二年近く、トリオのトレーニングを見守っていた。

「足、結構速くなったわよね。」

「そうね。翼の大きさも厚みも、最初のころに比べてバージョンアップしてるし。」

「いつかほんとに、飛べちゃったりして……。」 

 

 時は来た。トリ男は気力も体力も、トレーニングも十分。山頂から飛び立つ日を明日に定め、最後のトレーニングに力を注いでいた。トレーニングの集大成として、今日は町中を駆け回るコースだ。時刻はちょうど昼下がり。井戸端会議が開催中だ。

「あら、今日のトリ男、いつもとコースが違うわよ。」

 さすがに見続けてきただけのことはあり、年配の女性がその変化を逃さずキャッチする。

「ほんと。こっちに来そうね。」

 初めて間近でトリオを拝めるかもしれない状況に、彼女たちは固唾を飲んでその時を待った。

「ビューッ。ゴーッ。」

 得体のしれない轟音が、彼女たちの耳に届く。と同時に、トリ男の姿を直線上に捉えた。少しずつ大きくなっていくトリ男。彼女たちの緊張と期待の入り混じったドキドキ感は、否が応でも高まった。

 それは、あっという間の出来事だった。彼女たちがトリ男の勢いに押されて目をつぶったその一瞬に、トリ男の姿は彼女たちの視界から消えていた。

「チリーン。チリリリン。チリリーン。」

 澄み切った美しい和音が辺りに響く。

 風の存在しない世界に吹いた初めての風。トリ男の作り出した風が、軒先の風鈴を揺らした。

「トリ男って、素敵な音を奏でるのね。」

「いつまでもこの余韻に浸ってたいわ。」

 彼女たちは、愛おしそうに惚れ惚れと、トリ男の背中を見つめる。トリ男の背中が次第に小さくなり、見えなくなってもなお、彼女たちの耳の奥では、トリ男の音が響いていた。

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