眼鏡

「いいか、十秒見つめた後に、心の中で一言唱える、『失せろ』と。その瞬間、眼鏡から視線の先にある対象へ、暗黒パワーが発せられ、人でも物でも闇に葬ることができる。どうだ? 簡単だろ?」

「はあ。でもどうして、これを僕に?」

「お前の体から出ている負のオーラが、半端なかったからだ。三回しか使えない。消せる人間は三人までだ。よく考えて使うんだな」

 見ず知らずの人間から、突然手渡された怪しい眼鏡。さっきの説明が事実ならば、とてつもなく恐ろしいものだ。小心者の俺に、こんな道具を使う勇気は、一生かかっても生み出せない。俺は家に帰るとすぐ、押し入れのガラクタばかりが入っている段ボール箱に、眼鏡を放り込んだ。


 ある日突然、冷蔵庫が壊れた。コンセントを抜いてもう一度差しても、うんともすんとも言わない。十年ぐらい使っている。もう寿命だろう。

「えーっと、冷蔵庫を捨てるには……」

 俺はスマホで、冷蔵庫の処分方法を調べた。思ったより料金がかかる。しかも申し込みも面倒臭そうだ。その時突然、頭に浮かんだ。

「眼鏡……」

 押入れを開け、ガラクタ入れの一番上にあった眼鏡を取り出した。そのまま冷蔵庫の前に行き、眼鏡を掛ける。目を閉じ、心を落ち着かせて、使い方を確認した。

「十秒、見つめる、失せろ」

 何も難しいことはない。俺は顔を上げ、冷蔵庫を真っ直ぐに見つめた。

「十、九……二、一、零。失せろ」

 高鳴る鼓動を感じながらも、俺の目は冷蔵庫をとらえ続けた。が、相変わらず冷蔵庫は俺の目の前に存在している。一分、二分と経過しても、状況が変わる兆候すら感じられない。

「ふふっ。だよな。物が消えるわけないよな」

 心のどこかで信じていた自分を愚かに思った。一気にすべてがバカバカしくなり、俺は眼鏡を外してゴミ箱へ向かった。

「?」

 ……ない。冷蔵庫が、なくなっている。ほんの少し前まで存在した、四角い大きな鉄の箱が、姿を消している。俺は慌ててもう一度、眼鏡を掛けた。やはり、ない。どうやら、この眼鏡のパワーと俺の呪文が、冷蔵庫を闇に葬ったようだ。冷蔵庫のあった空間に触れてみるが、何かが手に当たるわけもなく。フローリングだけは少しへこんでいて、冷蔵庫が存在していたことを静かに物語っていた。


 最近、野良猫がやけにうるさい。時間に構わず鳴きわめき、いい迷惑だ。今日も隣家の屋根に寝そべり、時折鳴き声をあげている。俺はベランダの窓を開けた。

「十、九、八……一、零。失せろ」

 眼鏡を外して確認すると、猫の姿はどこにも見当たらない。任務完了。今日から安眠できるだろう。


 残り一回、最後はやはり、アイツを消そう。同期で業績トップのアイツ。アイツのせいで、俺は入社以来、常に二位。アイツさえいなければ。いつでも実行できるよう、胸ポケットに眼鏡を差して、その時をうかがった。

 チャンスはすぐにやってきた。用を足し、手を洗っていると、アイツが入ってきたのだ。興奮を抑え、眼鏡を掛ける。鏡越しにアイツの背中を捉え、カウントダウンを開始した。

「十、九、八」

 アイツの背中が少し動く。俺の思っているより、早く終わりそうだ。

「六、五、四」

 用を足し終えたアイツが振り返った。こちらに向かって歩いてくる。鏡の中のアイツが、少しずつ大きくなってきた。

「三、二」

 真っ直ぐこちらに向かっていたアイツが、少し横方向へ移動し始めた。アイツの動きに合わせて、俺の視線も動く。捉えた獲物を逃すわけにはいかない。

「一」

 アイツと俺が鏡の中で重なり、アイツの体は俺の体にスッポリと隠れた。

「零。失せろ」


 この日、トイレの床に落ちていた眼鏡が落とし物として守衛室に届けられた。

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