隣は何をする人ぞ

「ドンッ。ボンッ。バンッ」

 まただ。花子は憂鬱になった。一週間前に社会人になったばかりの花子。新居、新たな生活、夢にまで見たアパレル系の仕事、何もかも思い通りで、前途洋洋だった。しかし、新居初日の夜から、謎の音に悩まされた。何かを殴っているかのような重い音が、決まって八時ごろから約二時間、部屋に響くのだ。この一週間、毎日聞こえてくる謎の音。花子は、音のしてくる方向を見つめながら、何かを思い出していた。


「えーっ、この時代、引っ越しのあいさつなんて、誰もしないよ。ねーっ」

 その声に同僚の多くはうなずいた。しかし、村全体が一つの家族のような田舎で育った花子にとって、あいさつは基本だ。昨日の引っ越し作業後にも両隣を訪ねてみたが、あいにく不在だった。今日帰宅したら、まずはあいさつに行こうと思っていた花子は、周りの反応に驚いた。

(やっぱり都会は冷たいな)

 しかしこの晩、あいさつに行ったことを花子はひどく後悔した。一方には三十代前後の男性。山のように大きな体と、いかつい顔、丸刈りの頭。金ピカのアクセサリーが無言のプレッシャーをかけてくる。どこからどう見ても堅気の人間とは思えなかった。もう一方は四十代と思しき女性。小太り、猫背、表情を隠すように伸ばした髪の毛。人と目を合わせることさえ避けているような雰囲気を醸し出している。人生の負け組を絵に描いたような人だった。

 

 音は男の部屋の方向からだ。花子は、あの顔を思い出すだけで身震いがした。初日こそ満開の桜のようにピンクに輝いていた花子の新生活は、一週間が経過して、次第に灰色を帯びてきていた。男の部屋からの音だけでなく、女の部屋からは色々な声が漏れ聞こえてきた。昨日は、女子会でもしているのか、二、三人の女性たちの楽しそうな笑い声だった。花子は隣室の声に嫉妬を覚え、この街で友達と呼べる相手がまだいない自分が、とてつもなく価値のない存在に思えた。今日は若い男性の声が聞こえる。甘い雰囲気も、いやでも伝わってくる。花子は昨日以上に落ち込んだ。第一印象で人生の負け組だと決めつけた女性には彼氏がいて、自分にはいない。

(負け組に負けるなんて……)

 部屋にいると、花子は両隣から聞こえてくる声と音に敏感になっていた。

 

 今日は会社で新入社員の歓迎会があり、少しお酒の入った花子は陽気だった。鼻歌まじりに陽気なまま、マンションのエントランスに入った花子は、エレベーターを降りた直後に不穏な空気を察知した。女の部屋から何やら言い争う声が聞こえる。不謹慎な鼻歌は即座に停止させ、息を殺して女の部屋の前を通り、自室のドアに滑り込んだ。花子は何故だか勝ち誇ったような気分になっていた。

(マンションの廊下にまで聞こえるボリュームで痴話ゲンカなんて、恥ずかしい。やっぱり負け組は負け組だ)

 部屋に入ると女たちの声は、はっきりとは聞こえなくなったが、ヒートアップしている空気だけは、壁伝いにひしひしと感じた。

「ドンッ。ボンッ」

「八時か」

 花子の中で、謎の音は時計代わりとなっていた。

(楽しい気分で帰って来たのに、お隣さんたちのせいで台無し。今日は早くお風呂に入って、寝よーっと)

 湯船にお湯を張っている間、なんとなくテレビを付けた。両隣からの声や音をわずかながら防ぐこともできたし、ほんの少しの気分転換にもなった。

「やめて」

 女の部屋からの声を、これまでになく鮮明にキャッチした。いけないこととは思ったが、中身が気になる。花子はお風呂のお湯を止めてテレビも消し、女の部屋との境にある壁に近づいた。

「ドンッ」

 いつも以上に響く音。心なしか、部屋自体も揺れた感じだ。まるで、女の部屋から聞こえる声の大きさに、抗議でもしているかのようなタイミングだ。

「だから、やめてよ。これ以上やったら、警察呼ぶよ」

 ただならぬ空気。警察という言葉に、花子の緊張も高まった。

「ドンッ。ドンッ」

 男の応酬も続く。花子の想像は膨らんだ。

(私の部屋を間に挟んで、男と女がケンカをしているんだ、きっと)

(二人は以前からご近所トラブルを抱えていたのかも……)

(いつか二人が廊下に出て、私の部屋の前で取っ組み合いを始めたらどうしよう)

 

「キャーッ。助けてー」

 それは、全てを切り裂くような声だった。そして、女の部屋からは何も聞こえなくなった。壁に耳を押し当ててみたが、静寂が広がっている。

(え? 何が起きたの? まさか、事件?)

 興奮状態の男が、いつ自分の部屋に押し入ってくるかわからない。花子は慌てて玄関に向かい、ドアチェーンを掛けた。それでも恐怖はぬぐえない。家中の窓のカギを確認し、携帯電話を握りしめ、布団を頭からかぶった。


「ドン、ドン、ドン。ピンポーン」

「こんばんはー。ドン、ドン、ドン」

 玄関から聞こえる騒がしい音に、ビクッとして目が覚めた。花子は眠ってしまっていたようだ。瞬時に蘇る恐怖心。そーっと静かに、気配を消して玄関に行き、ドアスコープを覗く。警察官だった。

(今日聞いた声と音を、全て証言しなければ)

 花子は静かにドアを開けた。念のため、チェーンはそのままにして。

「あっ、夜分遅くにすみません。警察の者です」

 ドアの隙間から警察手帳を見せられた。男性と女性、二人の警察官がドアの前に立っていた。

「実は最近、この辺りで深夜に放火や空き巣などの犯罪が多発しておりまして。今日は、気を付けてくださいということと、何かご存知のことがあればお教えいただこうと思い、伺いました」

 そういうことだったか、と花子は少し安心した。

「わかりました。少々お待ちください」

 そう言うと、花子はドアチェーンを外すために、一度ドアを閉めた。次にドアを大きく開けると、廊下の音が耳に入ってきた。玄関から顔を出し、左右を窺う。両隣にも同じように警察官の姿があった。

(生きてた……、よかった)

 女が普通に警察官に対応しているのを見て、花子はホッとした。その後、色々なことを聞かれたが、花子は何を聞かれ、何を話したか、実はあまり覚えていない。両隣が警察官と交わした会話だけが耳に残った。

「もしよろしければ、お仕事、教えていただけますか?」

「はい、声優です。アニメや海外の映画の吹き替えなどを」

「台本の読み練習で、遅くまで起きてることが多いんですが、怪しい声とか物音とか、聞いたことはありませんね」

「多分、刑事さんのお子さんも大好きだと思うんですけど、あの人気アニメの太郎君、あれ、私なんです」

「普段は何を?」

「自分、格闘家なんです。昼間はジムや道場に行って、夜は家でトレーニングを」

「こんなトレーニング機器がご自宅に揃ってるなんて、本格的ですね」

 警察が部屋の中をのぞきこんで、感心したような声をあげた。

 

 隣は何をする人ぞ――

花子は、人を見かけで判断して勝手な妄想を膨らませ、両隣を社会からドロップアウトした人間だと決めつけた自分を反省した。

都会のルール、都会での生き方を学んで、少し成長した花子なのでした。

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