自由から逃げる人たち

先日、Netflixで配信されている
「忍びの家」を視聴しました。

忍び集団同士の戦いが描かれていますが、
制作費がかかっているお陰か
戦闘シーンは中々カッコ良いです。

さて、
作中では架空の新興宗教(カルト)
が登場します。
しかし実態は、敵の本部なのです。
(ありがちですね)

その新興宗教では、
教祖が神として祀られています。
信者役らは病的な演技をしている訳ですが、
それが不気味でした。
(ありがちな演出ですね)

我々日本人は、
宗教というものにアレルギー的なものを
持っていると言っても
過言ではないです。

だから、
ストーリー構成において
「悪の組織は新興宗教だぜ」
ってのがありがちですね。

(※本来、正しい宗教は全く怪しいものではありません。それこそ無知からくる臨在感的把握とでも言っておきましょう。)

ここで疑問が浮かびます。
病的なまでの信者達は
あくまでフィクションだけの
存在でしょうか?

否、個人が宗教に飲み込まれてしまい、
不利益を被ることは
決して珍しくありません。
オウム真理教統一教会がいい例ですね。
(一部の悪い輩が目立つのは世の常です)

しかし、
なぜ人は新興宗教(カルト)にのめり込むのか?
今回は、
ドイツ社会心理学者エーリッヒ・フロム
「自由からの逃走」をベースに考察します。

2種類の自由!

人間は自由を求める存在なのは
周知の事実かなと思います。

ヨーロッパ等の国々は、
革命を通じて民主主義を獲得してきた
歴史がいい例です。
(中国の場合は易姓革命といって、本質が全く違う革命を繰り返してきました)

革命において民衆は、
民主主義への自由(〜への自由:積極的自由)を
求めて戦ったわけです。

しかし、
現代のカルトにのめり込む人々は
各々が感じる不安を解消したい
不安からの自由(〜からの自由:消極的自由)を
求めている訳です。

上記のように、
フロムは本書で、
自由の種類には
積極的自由消極的自由があると述べています。

どちらも自由を得ています。
しかし、本質が全く異なるのです...

服従している?

前述したとおり
自由には2種類あります。

歴史が語るように、
積極的自由は
個人や集団に自由を与えてきました。

ここで問題なのが、
消極的自由に関してです。
あまりいい歴史がないんですよ。

いい具体例があります。
ナチスによるファシズムです。

当時、ドイツはハチャメチャでした。
第一次世界大戦で敗北し、
国土は焦土と化した上で
多額の賠償金を課せられます。
ドイツ経済は大悲鳴。
当然、国民の生活に特大ダメージです。

そしてドイツ革命による民主主義の導入。
帝政を廃止し、
国民は皇帝からの自由を得たのです。

しかし、民衆は孤独になりました。
自分達を絶対管理してきた存在が、
急に消えたからです。

ドイツ国民は何を信じ、
何を頼ればいいのか分からなくなりました。
(経済もバカきついし)

そこで登場したのがヒトラー率いるナチスです。

その圧倒的な権威に
ドイツ国民は熱狂しました。

現代のカルトっぽく言えば、
「神が私たちに救いをくださる!」
って感じ。

ヒトラーも
オウム真理教のヒゲおじさんも
とある要素を利用して、
熱狂的な支持を得ました。
次に説明します。

挙げ句の果てに
自由から逃げ始める

消極的自由により
自由を得る(得ようとする)人は、
自由になったが故の孤独
苦しみます。

挙げ句の果てに、
得た自由から逃走する行動は3つです。

①権威主義
虎の威を借る狐です(スネ夫)。
合コンで真っ先に、
自分の会社を言う人がいい例です。
自分に欠けた力を得るために、
自分(皆)より強い何かに融合したがります。

ヒトラーや
ヒゲおじさん(麻原彰晃を指す)は、
自由社会が故に
孤独や不安に苦しいでいる人々を利用しました。
彼らは権威を振りかざすタイプです。

人々は権威あるものと融合したい。
権威ある側は融合させてあげるよ〜。

って感じですね。

②破壊性
何かを攻撃(破壊)して
苦しみから逃れようとすることです。
2パターンあります。

1パターン目は
自分自身を攻撃(破壊)する行為です。
成功した人を見て落ち込んだ末に..
みたいな感じです。

2パターン目は
他人を攻撃(破壊)する行為です。
ナチスはユダヤ人虐殺をし、
オウム真理教はポアすることで
内部の連帯感を保ちました。

③機械的画一化
ユダヤ人虐殺では、
ドイツ人達に人の心はなかったのでしょうか?

人なので心はあったのですが、
自分の意思を捨て去り
組織の機械(機械的画一化)となっていました。

オウム真理教でも
ヒゲおじさんが絶対的だったので、
彼の指示に
自分の意思を反映させることは
ありませんでした。(機械化した)

ナチス・オウム真理教・統一教会
の共通点

上記3つの逃走行為を利用したのが
ナチスやカルト宗教ですが、
これらに共通することはなんでしょうか?

それは、
「社会に居場所がない」と
苦しんだ若者や社会的弱者を
搾取して巨大化したことです。

ナチスとオウム真理教は、
若者や社会的弱者を熱狂させ
破壊性を非人道的行為に発展させました。

統一教会は
権威主義機械的画一化を利用して
無尽蔵に献金を集めました。

カルトは、教祖や幹部の私利私欲を
満たすために
個人の尊厳を踏みにじります。

しかし、それを良しとして
(無意識だとしても)
信者らは
自分や他人の尊厳を
踏みにじっていたのです。

話が暗くなったが
安心せぇ!

つらつらと述べてきましたが、
結局のところ
言いたいことは明確です。

積極的自由(〜への自由)により
自由を得る(得ようとする)行為は、
自分と他人の
尊厳を守ることができます。

子供がサッカー選手に憧れ、
努力する行為も積極的自由です。

難関大学に合格するために、
猛勉強することも積極的自由です。

会社員が自営業に憧れ、
貯金や知識を蓄えることも積極的自由です。

人生の中には結構、
積極的自由はあるのですね。
しかし、
それらを認知し選別する能力は
また別の話...

自由を謳う責任

現代社会に生きている私たちは、
生まれた時から自由です。

奴隷として生まれた人は
少なからず、日本にはいないと思います。

しかし自由が故の苦しみもあります。

私のSNSの発信内容を
管理してくれる人はいません。
全責任は私にあります。

一ヶ月後、仕事をクビになるかもしれません。
自分で仕事を探し
生活費を稼がなくてはいけません。

結婚相手をミスってしまうかもしれません。
その後の決断次第では
自分や結婚相手、
その周囲の人まで
不幸にさせる可能性もあります。

私たちは自由とはなんぞやと
思考する必要があります。

そして、
生まれた時から持っていたが故に
無意識的に謳歌している自由は
責任が伴うものだと自覚しなくてはいけません。


サルトルは言いました。
「人は自由の刑に処されている」


この事実を、
変更する余地はありません。

貴方も私も〈自由が故の責任〉
処されています。


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