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演劇レビュー 範宙遊泳『バナナの花は食べられる』~関係を「必然」とするファンタジーの力

写真:撮影 竹内道宏「バナナの花は食べられる」範宙遊泳

範宙遊泳 
作・演出 山本卓卓(すぐる)
出演:埜本幸良 福原冠 井神沙恵 入手杏奈 植田崇幸 細谷貴宏
クリエイティブスタジオ(札幌市民交流プラザ3階)にて2023年9月22日観劇

2022年「第66回岸田国士戯曲賞」受賞作だ。東京の人気劇団の公演が札幌であるということで観に行った。現在トップで活躍中の才能ある若手劇団が札幌で公演するというのは貴重な機会なのだ。劇団ハイバイ『手』(岩井秀人)五反田団『pion」(前田司郎)劇団マームとジプシー『ΛΛΛかえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと―』(藤田貴大)劇団た組『ドードーが落下する』(加藤拓也)『ケダモノ』赤堀雅秋、劇団チェルフィッチュ『地面と床』(岡田利規)…。さて岸田国士戯曲賞を受賞した「範宙遊泳」はどんな芝居をするのだろう。予備知識なしで観に行った。

「救いたい」、「ファンタジー」、「必然」という劇中のキーワードが気になった。

元詐欺師の前科1犯、独身、友達なしの穴ちゃん(穴倉の腐ったバナナ)が、「僕は、人を救いたいんだ」と人と関係を持ち、「俺」は「俺ら」となり、「ファンタジー」の力に頼りながら、関係や過去の出来事を「必然」と断言する。同じように孤独にマッチングアプリのサクラをやっている百三一桜(ひゃくさいさくら)、売春をやっているレナちゃん、その元カレの売春斡旋をして、ドラッグの売買にも関わっているミツオなどが登場してくる。このミツオという男は、記憶をすべて失くし、過去の悪事を一切覚えていなくて、声を発することができずに機械的な音声で会話をする男として再登場する。この奇妙で孤独で腐ったどうしようもない人間たちが、穴ちゃんの驕り、おこがましいとも言える「救いたい」というウザイ思いによって関係が繋がっていく。

関係を極力避け、孤独な居心地のいい世界だけを好み、面倒でウザイやり取りを拒否し、物事を冷ややかに諦念とともに眺める人が多い現代にあって、「救いたい」などとホザく面倒な奴などいない。いたとしても普通は関わりたくない。その勘違い男による「関係は必然」だという肯定がなぜか気になっていく。しかも「ファンタジー」という物語の力を借りて、親密になろうとする穴ちゃんというエキセントリックな存在が演劇を駆動させる。

百三一桜とレナちゃんは付き合うことになるのだが、ミツオという記憶と声を失った元カレの出現によって、関係がギクシャクしていく。穴ちゃんと百三一桜の相棒二人の探偵稼業もミツオの出現によって言い争いが増えていく。「ファンタジー」が破綻していく。そこで穴ちゃんは、かつて断酒会で知り合った一人の女性を「救いたい」と言い出す。断酒会から突然いなくなり、田舎で名前も変えてひっそりと暮らしているアリサ。そのアリサへの穴ちゃんの思いを伝えるため、百三一桜とレナ、ミツオたちはひと芝居打つ。嘘によるレナのアリサへの接近。偽のバンドで歌による愛の告白。しかし、ミツオが仮面を取った瞬間に、アリサは壊れてしまう。精神の異常をきたしてしまう。変えられない過去のトラウマ。変えられない過去の暴力や悪。

そしてミツオの人の死の瞬間が分かるという特殊な能力をめぐる「俺たち」の「ファンタジー」が始まる。死の運命を変えるという「ファンタジー」。バラバラだった関係はいつしか「必然」になっていく。

あらゆる出来事は「必然」なのだろうか。それはただの「偶然」の積み重ねであり、人生には「意味」などありはしない。「必然」などという思い込みは、人生や関係の呪縛となるばかりだ。そういう風に考えることもできる。ただこの演劇で出てくる「必然」という関係は、「肯定への意志」のように感じる。どんな出来事も引き受けていこうという強い意志。レナちゃんが百三一に言う。「ミツオとの関係を百三一が断つのなら、私との関係もなくなることになる。私は元カレのミツオとつながって、ここにいるのだから」。関係は繋がっていく。都合の良いところだけ、排除することなど出来ない。それも含めてタフに生きていくこと。肯定して生きていくこと。関係を作りながら。

映像(台詞)を舞台に映したり、カメラで撮った舞台映像が映し出されたり、マッチングアプリをめぐる軽い会話が展開され、今どきの若い人たちの演劇という感じがする。しかし、会話がやや理屈っぽく、過剰であり、劇全体が3時間以上もありやたらと長い。もう少し簡潔にシンプルに削ぎ落とせないものか。過剰な台詞の自己弁護や他者への介入が、関係を「必然」とする「ファンタジー」を生むとも言えるのだが。長かったけれど、面白かった。


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