映画『ドライブ・マイ・カー』テキストから引きずり出される自己、クルマそして音と身振り

『ドライブ・マイ・カー』については、すでに劇場公開時の2021年8月に映画館で観たレビューを書いている。(https://hideyosi719.blog.fc2.com/blog-entry-1477.html) しかしその時は、この映画の複雑な構造を大雑把につかんで書いただけだった。今回WOWOW放送時に録画したものを、じっくりと見返すことが出来たので、改めて感じたことを書いてみたい。

この映画はタイトルにある通り、クルマの映画であることがハッキリと確認できた。赤いサーブ(原作ではオープンカーの設定だったが)の走りのシーンの多さに改めて驚いた。東京から広島、そして韓国まで、ありとあらゆるクルマの走りのカットがある。俯瞰の映像が比較的多いが、横や後ろや前からの併走、橋を渡るクルマ、トンネル、夜の坂道のパン、カーブを曲がる夜の道の横レール移動、白い雪道での赤いクルマ。ドライバー目線の車窓も多いし、車内の芝居ももちろん多い。そんな中で目立つクルマのカットが二つあった。それは走っているクルマではなく、静止しているクルマだ。重要なシーン、西島秀俊が妻の霧島れいかの浮気のセックスを目撃してしまった後、立体駐車場で赤いサーブが西島秀俊を待っているように、真正面からカメラで捉えられてそこに在る。西島秀俊の居場所は、クルマにしかないかのように。もう一つは、ドライバーである三浦透子の北海道の故郷の雪景色の村で、西島秀俊に「死者のことを考え続けて、僕たちは生きていかなければいけない」と言われ、二人が抱擁したロングショットの後で、静止した赤いサーブがまたしても映し出される。今度はやや斜め前からの長めのカット。登場人物以上に明らかに重要な存在=居場所として「赤いサーブ」は映画の中心に存在している。その静止したクルマのカットにこそ、この映画の特異性がある。そして、さらに夜のドライブシーン。特に西島秀俊と岡田将生の死者(霧島かれん)をめぐる長い長い対決のような切り返しのやりとり。戸外でも屋内でもない動くクルマは、半個室的な不思議な空間。特に夜のこの長い二人のやりとりは、いったいどこを走っているのか?どこでもない場所を走っているかのような奇妙な浮遊感がある(リアリティとしては店からホテルまでの道のはず)。非現実的な空間と時間。死者をめぐる男二人の視線の交錯と会話。二人は動かず、窓外の夜のライトが流れていく背景。見応えのある特別なシーンになっている。

もう一つは、音のキッカケだ。言うまでもなく、妻である霧島れいかは、名前の通り「音」としてある。シルエットで最初に登場する霧島れいかは、存在感が希薄だ。タイトル前の前半部しか登場しないこともあるが、描かれ方が影のようだ。セックスの場面とその後の物語の語り。西島秀俊が目撃する浮気現場も鏡に映る像として描かれており、生活感のある描写はない。それよりも戯曲を朗読する「声」として全編を貫いている。脚本家としての彼女のセックス後の物語りもまた「声」だ。それは村上春樹の原作の語り部でもあり、テープの声はチェホフの戯曲の語りだ。いわば「向こうの世界」(死の世界、虚構の世界)からの霊媒師、メッセンジャーのように、現実世界に声でメッセージを届ける存在だ。

「チェホフは恐ろしい。彼のテキストを口にすると自分自身が引きずり出される。そのことにもう耐えられなくなってしまった」と西島秀俊は岡田将生に広島のバーで打ち明ける。この映画はチェホフの戯曲の力から引きずり出された自分自身と向き合う登場人物たちの物語でもあるのだが、『ワーニャ伯父さん』の大事なソーニャの台詞、「仕方ないわ。生きていくほかないの。ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう」という台詞は、映画の中で3度語られている。一つは、西島秀俊が帰ることを躊躇していた夜、霧島れいかがクモ膜下で倒れた夜のクルマの中で、駐車場に着いてから抑揚のないテープの声であの台詞が彼女によって語られている。死者からのメッセージのように。2回目は、同じ意味のことを西島秀俊が北海道で三浦透子に語りかける。「生き残った者は、死んだ者のことを考え続ける。僕や君は、そうやって生きていかなくちゃいけない。僕たちはきっと大丈夫だ」と。そして3度目は、映画のクライマックスの舞台の上で、韓国人女優の無言の手話によって語られるのだ。この映画が感動的なのは、そのチェホフの戯曲のメッセージの強さだけではなく、抑揚のないテープの声として、死者を受け入れて生きていく心の内から出てきた言葉として、そして無言の手話として、形式を変えながら同じことが3回も語られていることである。

言葉の意味と同時に、意味以上に大切なメッセージは、その伝える身振りや声のトーンや強弱や、語る相手から感じられる意味以上の「何か」だろう。多言語演劇とは、そもそも意味ではない他者の身振りや音としての声に共振していくことだ。そのすべてに耳を澄ませなければならない。岡田将生がクルマの中で、西島秀俊に語りかける。「他人の心をそっくり覗き込むことなんて出来ない。自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくこと。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない」。それを妻との関係において出来なかった西島秀俊。「自分自身に耳を傾けなかった。だから<音(妻)>を失ってしまった」。怖い母とは別のもう一つの人格である「少女のような母」にこそ、本当の母の声が聞こえた三浦透子。二人とも、大切な人を死から救うことが出来なかった。失ってしまった後に気づく、それぞれの悔恨。

霧島れいかのセックスのあえぎ声やクラシック音楽のレコードの音、西島秀俊が妻とパソコンでチャットする時の電子音、岡田将生が切れるキッカケとなるカメラのシャッター音(リアル以上の大きさ)。音キッカケで人生を狂わすようなことも起きるし、音がじっくりと身体に染み込んでいくこともある。霧島れいかの語る物語の中でも「階段を昇ってくる足音」が重要なキッカケとして語られるし、監視カメラに向って「私が殺した」と音声が無くても少女は叫び続けた。西島秀俊と三浦透子が広島の海辺で会話していたときも、飛んできたフライングディスクの音で会話が中断されるし、劇場での虚構のピストル音は、現実の刑事がやってくるキッカケにも思える。そして何よりも手話の無音さこそが、最も感動的な瞬間であったりする。

この映画は、意味で伝わる以上のもの、身振りや音に耳を傾けようとした映画であり、登場人物以上に人を受け入れ包み込むクルマという存在、そしてその静止も含めた運動と境界の曖昧な特別な空間を描いた映画である。

ラストの韓国での三浦透子と犬と赤いサーブから何を連想するかは、人それぞれで違うだろう。それは自由に想像すればいいことだ。ただ、彼女が生活感を持って前を向いて「生きている」こと、その身振りや表情の変化こそが重要なのだと思う。

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