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デイミアン・チャゼルの出世作『セッション』~男と男が音楽で対決

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『バビロン』が壮大な仕掛けの大作だったのに比べ、 デイミアン・チャゼルが世に認められる出世作となった本作は、いたってシンプルな男と男の対決の物語だ。しかもジャズドラマーというかなり限定された世界のミュージシャンの話だ。その限られた狭い話にしたのが良かったのだと思う。

名門音楽学校に入学したニーマン( マイルズ・テラー )は、伝説の教師と言われるフレッチャー( J・K・シモンズ )の指導を受けることになった。しかし、常に完璧を求めるフレッチャーは徹底的にニーマンをしごく。まるでスポ根マンガ『巨人の星』のような強烈な熱血指導。パワハラなんのその。ビンタや罵倒、罵詈雑言の限りを尽くし、ニーマンを追い詰めていく。ニーマンもまた血染めのボールならぬ血染めのドラムスティック。血豆をいくつも潰し、ドラムを血に染めながらその厳しい指導に応える。まさにバトルだ。汗と血にまみれたドラム演奏。いやはや、そこまでやらんでも…と思うのだが、フレッチャーは「チャーリー・パーカーは舞台の上でヘマをしてドラマーのジョー・ジョーンズにシンバルを投げつけられ舞台を退散した。その夜、泣きながら寝たが、翌日から猛練習して努力を重ねて、「バード」というあだ名がつくほど有名になったのだ」とジャズ界の偉人の物語を何度も口にする。でも今の時代は、こんなシゴキは出来ないでしょう…と思いながら、時代錯誤のパワハラ的熱血指導と生徒の戦いを見守ることになる。

しかし、ある大事なステージに向かう途中でニーマンは交通事故に遭って、血だらけのままステージに駆けつけ、途中で演奏が出来なくなってしまう。「終わったな」とフレッチャーに言われ、ニーマンは逆上してフレッチャーに殴りかかる。そして結局は退学処分になる。この映画は、ここからが面白い。

ジャズドラマーになる夢を奪われて、もぬけの殻になったニーマンは、ある夜、ジャズバーでフレッチャーが演奏しているのを目撃する。フレッチャーに呼び止められて話をすると、彼もまた学校を辞めて、ジャズバンドの指揮者をやっていると言う。フレッチャーの指導に耐えられなくなって自殺した生徒の親が、ニーマンを訴えたらしい。「俺は生徒のレベルを引き上げようとしただけだ。謝罪するつもりはない」と言い切る。そしてカーネギーホールの演奏会でドラムをやらないかとニーマンを誘う。

ステージでの本番当日、「俺を密告したのはおまえだろ。俺を甘く見るな」とフレッチャーはニーマンに言うと、いきなり練習していない曲をステージ上で始める。楽譜もないニーマンは、滅茶苦茶な演奏しかできない。悔しさを胸に、一度は舞台を降りたニーマンだったが、最後に自らのドラム演奏でフレッチャーに復讐するのだった・・・。

ドラムという音楽で戦いを挑むという仕掛けが面白い。言葉で罵倒するのでもなく、殴り倒すという直接的な暴力でもなく、ドラム演奏という音楽で自らを罠に陥れた敵に挑んでいくのだ。つねに受動的な存在でしかなかったニーマンの初めての能動的なアクション。それがステージ上で炸裂するのが心地よい。教師という上の立場からの生徒への暴力的な洗脳は気分が悪くなるが、音楽を映画そのものの戦いのアクションに、ドラマに取り込んだその仕掛けに拍手を送りたい。
「ジャズはこんなものではない」、「音楽を都合よくドラマの道具にしか使っていない…」という批判も分からないではないが、しょせんは映画の絵空事なのだ。

チャゼルは、こういった暴力的な毒や矛盾も含めての表現そのものに、惹かれるものがあるのだろう。表現には模範的な正しさばかりでは、いいものは生まれない。正と負、プラスとマイナスの両義性が常にある。それは『バビロン』で描かれた「見世物としての毒」が、映画表現には含まれていることにも繋がるものだろう。そして憑りつかれたような熱情がここにはある。


2014年製作/107分/G/アメリカ
原題:Whiplash
配給:ギャガ

監督・脚本:デイミアン・チャゼル
撮影:シャロン・メール
美術:メラニー・ペイジス=ジョーンズ
衣装:リサ・ノルチャ
編集:トム・クロス
音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
キャスト:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ、メリッサ・ブノワ、ポール・ライザー、オースティン・ストウェル、ネイト・ラン

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