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『落下の解剖学』ジュスティーヌ・トリエ~真実は藪の中 音と犬に導かれて

画像(C)LESFILMSPELLEAS_LESFILMSDEPIERRE

犬に始まり犬に終わる。ボールが階段を落ちてくる音とともに犬が階段を下りてきて、ボールを咥えて階段をまた上がっていく。息子は犬をシャンプーし、犬と散歩に出て行く。息子のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)は目が不自由なようだ。犬が道を先導する。そして、ラストシーンは、犬が寝床にジャンプし、小説家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)の横に添い寝するシーンで終わる。なんだろう?このラストの犬の動きは・・・と観客は訝しむ。そう、考えさせられ続ける映画だ。

すべてを明らかにする映画ではない。妻サンドラの殺人か?夫サミュエル(サミュエル・セイス)の自殺か?あるいは事故か。起訴されたサンドラは、古くからの友人である弁護士のヴァンサン(スワン・アルロー)に弁護を依頼する。裁判では、検事、弁護士から様々な落下の可能性が示される。そして最後に決め手となったのが息子ダニエルの証言だった。裁判は結審するが、本当のところはどうだったのか、映画は明らかにしない。真実を明らかにするミステリーではないのだ。だからネタバレも何もない。夫の落下は何が原因だったのか、真実は分からない、「藪の中」のままだ。観客がどう思うか、真実は投げ出されている。たとえば、人生の分岐点は紙一重だということなのかもしれない。殺してしまうこともあるだろうし、自殺してしまうこともあるだろう。あるいは事故的に誤って落ちてしまっただけなのかもしれない。人生にはあらゆる可能性があり、あらゆる選択肢があり、決定的で確定的なことなど何一つないのだ。そんな人生の危うさ、不確かさについて考えさせられる映画だと言えるだろう。

そして本作を特徴づけているのは、音の使い方、音楽の使い方だ。妻である作家サンドラが、女子学生のインタビューを受けている時に上の部屋から聴こえてくる不快なまでの大音量の音楽。言葉のやり取りが成立しない過剰な音。それは夫サミュエルの嫌がらせだったと、後でわかる。しかし、最初はこの何だか分からない大音量が、映画に不穏な空気を漂わせる。妻への嫉妬。同性愛者でもある妻は若い女子学生と何かを始めようとしていると夫が感じたのかもしれないし、それは単なる妄想だったのかもしれない。妻である作家は、まともにインタビューを受ける気がしないらしく、はぐらかして学生に関心を示したり、何か普通な感じではない。この音楽の大音量とインタビューにならないインタビューという奇妙な出だしの違和感がうまい。息子が犬と散歩から帰ってくると、落下した父サミュエルの死体をまず犬が発見する。死体を見ている犬のカットまで挿入されるのだから、犬に何か意味を持たせようとしているのかもしれない。

父親の音楽、そして父親の苦悩を感じるように激しくピアノの鍵盤を叩く息子のダニエル。そうするとダニエルの横に座って、静かなピアノ曲を弾き始める母親のサンドラ。音楽によっても父と母の間に引き裂かれて苦悩する息子。息子にも真実がどこにあるか分からない。結局はどういう結論を下し、今後をどう生きていくかを息子は考えるしかない。息子はある選択をし、裁判で証言する。過去の父親との会話のやりとりを。その証言は、息子がそう思いたかっただけなのかもしれないし、母をかばうために証言しただけなのかもしれない。それも誰にも分からない。すべてが「藪の中」にある。

裁判の最後の方で、前日の夫婦喧嘩の録音された激しいやりとりが示される。最後には殴るような音。しかし、それは音だけで映像で再現されない。だからそれは実際にはどうだったのか分からないままだ。小説を書こうとして書けなかった夫のサミュエルは、家での会話を小説のネタにしようとたびたび録音していた。夫のサミュエルは、自分の小説のアイディアを妻が盗んで別の小説にしたことを恨みがましく非難する。あるいはサンドラの浮気を責めたてる。息子が事故に遭い、視力を失い、ロンドンからフランスの山奥へと引っ越した。教師をしながら息子の面倒を見ることで、自分の時間が無くなったと不満をこぼす。それはあなたが自分で選んだことじゃないと反論するサンドラ。どこにでもある夫婦の仕事と家事と育児の分担の不満。小説家として成功している妻への嫉妬。書けないことの自己嫌悪。さらにこの夫婦には、フランスとドイツ、英語などの言語の壁の問題も絡んでくる。お互いが相手に合わせて我慢している不満。本音を伝えられない壁。愛し合っているように見えて、夫婦の溝は深まっていた。だから、殺したのかといえば、そうとは限らない。プライド、嫉妬、性、自虐、息子へのそれぞれの思い、感情が複雑に絡まっていることが、前夜の夫婦喧嘩で明らかになる。それでも真実は分からない。

裁判劇を通して、父と母の知られざる関係を知ることで、息子のダニエルは混乱し、傷つき、悩む。息子と同じように、観客も夫婦の知られざる関係の溝を知ることになる。そして音が物語を導いている。さらに犬が常に先導している。すべてを知っているのは犬か?なんて思えてくるが、犬は何も語りはしない。ちょっと長いのだが、サスペンスの緊張感は最後まで続く。


2023年製作/152分/G/フランス
原題:Anatomie d'une chute
配給:ギャガ

監督:ジュスティーヌ・トリエ
製作:マリー=アンジュ・ルシアーニ、ダビド・ティオン
脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ
撮影:シモン・ボーフィス
美術:エマニュエル・デュプレ
編集:ロラン・セネシャル
キャスト:サンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、サミュエル・セイス、アントワーヌ・レナルツ、ジェニー・ベス、サーディア・ベンタイブ、カミーユ・ラザフォード、アン・ロトジェ、ソフィ・フィリエール

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