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思い出の書店


 その本屋は駒川という小さな流れにかかる上辻橋という橋の袂にあった。

橋を挟んで向かいはガラス屋だった。看板に羽田硝子店と書いてあったが、子供の頃「硝子」が読めなくて、女性がオーナーの店だと思っていた。

駒川に交差して南海平野線が川の上を走るレールだけの部分が数メートルあった。小学校の帰りに寄り道した時は、その危険な線路を通ると近道で、電車が来ないのを見計らって走り抜けると、ガラス屋の際に出てくるのだった。そして正面には本屋が見える。

 高坂書店の間口は狭かった。奥ゆきもそれほどなかったその突き当たりにおじさんかおばさんが座っていた。おじさんは眉が濃く、いわば縄文風の風貌だった。おばさんは化粧気はなく、パーマをかけた髪を夜会巻きにしていた。
わたしはよく立ち読みをしたが、おじさんもおばさんも優しかった。

わたしの家では昭和20年代から30年代、高坂書店から何冊か雑誌を取っていた。
おじさんか息子さんが自転車で配達していた。

世界画報とか時事画報は大判の写真雑誌だった。文字通り世界のニュースや風景
が出ていたが、マリリン・モンローなど外国の映画スターの写真もあった。
このどちらかの雑誌に匂いの出るページというのがあって、香水のような匂いがした。

文藝春秋、婦人公論はリビングのその辺に置いてあったので読んでいた。婦人公論にはその頃生々しい手記というのがあり、結構ふむふむと読んだりする小学生だったが、私用には幼稚園ブックから小学一年生など学年の名前がついていた雑誌を取っていた。

一方、少女、少女ブック、少女クラブ、りぼんといったものは発売日に自分で買いに行った。どれを取るか決めていなかったからである。
小学二年の時に北海道に住んでいる従姉が来て逗留したことがあったが、「おばさんに買ってもらった」と言って、それらの少女雑誌を2冊持っているのを見て、「あ、いいなあ」と思った。そしてちゃっかり自分の持っているのと交換して読んだ。

高坂書店には幅広くいろんなジャンルの本棚があったが、文庫本はそれほどなかった。しかしわたしは小学校高学年になると、文庫本を買いたいと思った。
文庫本を買うことは大人に近づくことのように思われた。そこで高坂書店で探したが、元々少ない上に子供が読めるような適当なものはなく、苦し紛れに買ったのは新潮文庫のロマン・ロラン「ゲーテとベートーベン」だった。

ロマン・ロランの名前を知っていたのはたまたま持っていた少年少女世界名作集の中に、抄訳された「ジャン・クリストフ」などの入ったロマン・ロランの巻があったからだった。しかしその後その文庫本は読まれることもなく長らく本棚の片隅に鎮座していた。

そこでは切手を売ってくれたこともあったが、なぜだったのか。書いているうちに思い出されてきた。小学生のわたしは切手を集めていて、高坂書店の隣が郵便局だったが、記念切手の発売日に早く行きすぎて売ってもらえなかった。それを聞いたおばさんが、ーー私もすぐ隣へ駆け込んで訴えたのかもしれないーー奥からたくさんの切手を出してきて、記念切手の小河内ダムや浮世絵のものなど、古い切手を発売時の値段で売ってくれた。

 高坂書店がいつまでその場所にあったかは定かではない。わたしが高三まではあったし、故郷を離れてからも休みに帰った時はあったように思う。
その後もわたしは転々としていたのだが、いつだったか「高坂書店は引っ越した」と聞いた。引越しといってもおじさんの故郷なのかどこか遠いところだった。引越しの日にはお別れの挨拶に来たらしい。それは昭和四十年代のことだった。

 今は高坂書店の跡地がどうなっているかわからない。南海平野線も無くなって久しい。大和川がよく氾濫していた小学生の頃は、「水が来た」という声で目を覚ますと、階段の下一段目くらいが水に浸かっていた。駒川は大和川の支流なのだった。それがいつ頃か川沿いの土の道は舗装され、川の土手もコンクリートになり、川底を掘られたのか水面は遥か下になっていた。 




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