Canterbury Chorale
雲間から射す朝陽が海面に光を注ぎ、ひんやりとした空気が街全体を包んでいる。昨晩のことがあってか、彼らはまだ泥のように眠ったままだ。
多綾は目を覚まし、ゆっくりと、静かにベッドから降りた。隣のベッドで眠っている和葉の顔を見やる。規則正しい寝息。まだ目覚めそうにない。
壁面の鏡に視線を移す。昨晩着ていた服は和葉が洗ったらしく、鏡の左側に干してある。今着ている真っ白なワンピースは和葉が着替えさせてくれたようだ。
鏡に正対し、右腕を伸ばして鏡に触れる。微かな、漠然とした不安が多綾の脳裡をよぎる。彼女はうつむいて唇を噛んだ。右手は鏡につけたまま、握られている。
深いため息をひとつついて、鏡に映っている自分の瞳を覗き込んだ。少し茶色がかった黒目。
——この瞳が、彼を困らせた——。
昨日のできごとが脳裏に再現される。殴られ、蹴られ、押し倒され……。そこに航太が駆けつけた。多綾を立ち上がらせようと彼は右手を差し出した。そこにつかまったまま、多綾は立とうとせず、すがるような瞳で航太を見つめたのだった。
大きなため息をついて瞳を伏せる。すると彼女の耳に、温かなハーモニーが聞こえてきた。窓の外の空を見上げる。ゆっくりと流れていく雲。その雲の流れがハーモニーを奏でているかのようだ。
多綾はしばらく空を眺めていた。天空から降り注ぐ音楽は、優しく彼女を包み込んだ。やがて甘く切ない旋律が、多綾の心の闇を貫き、心の奥深くに黄金の雪となって降り積もっていく。彼女は静かに歩き始めた。
部屋を出て、仄暗い廊下を歩く。階段を下り、井戸まで来た。水を汲み、手と顔を洗う。彼女はまた歩き出した。
長い廊下の突き当たりまで来て左に曲がり、またしばらく歩く。大きな扉の前で立ち止まった。呼吸を整え、大きな扉を押す。そこは聖堂であった。
正面の祭壇の後ろにあるステンドグラスから洩れくる柔らかな陽の光は、床面に窓枠の陰を落とし、礼拝者の席を色とりどりに染めていた。
赤い絨毯を一歩一歩踏みしめ、祭壇の前へと進んだ多綾は、両手を組み、左足を曲げて膝をつき、今度は右膝をついた。
頭を垂れて目を伏せ、手を組み一心に祈る彼女。唇が微かに動いている。それは呪文を唱えるようでもあり、懺悔の告白のようにも見えた。
多綾の唇が止まったが、姿勢を崩すことはなかった。そして決心したように立ち上がって後ろを振り返ると、大きな扉が音を立てて開いた。聖堂に入った航太を見て、多綾は立ち竦むことしかできなかった。昨日の血に汚れた自分の姿だけでなく、精神的な脆さをさらけ出してしまったからだった。
「早いのね」
「ああ……大丈夫か?」
「あまり大丈夫ではないわ」
多綾は航太の右をとおり、寝室への道を戻り始める。それを航太は追った。聖堂を後にした後、お互いにどう切り出せばいいのかわからない。ふたりは3歩分離れて歩きだした。
「夕べ……」
「何も言わないで」
言葉を飲みこんでしまってから気付く。自分は目の前の女性に何ができるというのか。少し自惚れすぎやしないか……。
「早く忘れられるといいな」
途端、多綾の瞳が大きく見開かれて、歩みも止めた。足元には、円形のしみが2つ、3つと増えていく。
「そんな簡単に、言わないでよ……私はあんな姿、見られたくなかった。私にとっては屈辱的なことなの。好きでもない人に、どうしてあんな姿見られなくちゃならないの?」
好きでもない人——それは昨日の暴漢なのか、それとも自分なのか。航太には判じられない。
多綾は言葉を継ぐ。大きな涙の粒が、瞳から頰をつたう。
「怖かったわ。誰も、自分でさえ自分のこと助けられないってわかったから。あいつはとことん私を辱めるつもりだったんだもの。あなたがもっと遅かったら、私は……」
困惑する航太の顔を、潤んだ多綾の瞳が捉える。
『……あなたに感謝しなくちゃいけないのにね。ありがとう」
「……ああ」
触れるとさらさらと崩れてゆきそうな危うさを感じさせる多綾の佇まい。その中に秘められた強く美しい意志を感じさせる。航太が多綾の二面性を看てとったのはこれが初めてだった。
航太は空を見上げた。雲がゆっくり右から左へ流れていく。少し冷たい風が、ふたりの頰をかすめ、多綾のゆるく癖のある長い髪をもてあそぶ。多綾はそれを右手で梳いた。
「私、もっと強くならなくちゃ」
「無理するなよ」
「うん……行こっか」
多綾は微笑んだ。航太もつられて笑顔になる。ふたりは一緒に歩きだした。朝陽がふたりを優しく照らし出している。
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