デヴィッド・グレーバーの『価値論』を読んでいる。感想文1.0。

 第一章のこのフレーズがいい。
 「その不毛さにも関わらず、クラックホーンの鍵となる発想には、どこか魅力的なところがある。たとえば、文化の差異を構成しているのは、人びとが世界をどのような存在であると信じているか、だけでなく、世界から何を正当に望むことができると感じているか、ということもあるという視点である。言い方を変えれば、人類学は、生の実践哲学についての比較研究であるべきだ、という主張である。」。 マックス・ウエーバーのように、人間存在の意味についての考え方について、いくつかの可能な方向性を特定して、そのうえで、それぞれが社会的行為にどのような影響を持つかを理解しようとするものに近いと考える。
 
 それをシンプルに考えると、それら価値について、ウエイトを付けたものの平均値みたいなものを想定して、それからの距離によって、たとえば、行政の方向や方針を決めていくといった、政治的なものに関係させることもできる。要するに金の使い方だ。それは政治的信条とほぼパラレルなのだ。
 
 端的にいって、そういうことが、日本の地方行政を選挙を通じて起こっているようだ。明石市や杉並区の首長選挙のように。「世界から何を正当に望むことができると感じているか」である。つまり、どのように価値にウエイト付けを行うということが、行政の方向付けをかなりドラスティックに変えることになる。自分がどういう価値観を持っているか、とはつまり、どういうウエイト付けをしているかということに自覚的になっているかということが、社会の変化にまで到達し得るのかということ、その可能性を考えること、でもあるということである。

 グレーバーの『価値論』は、そういう動機がある、つまりかなり政治的なのだ。彼の人類学は「主流の経済学」をカッコに入れて、その影響力をカットしてするものということらしい。平たく言えば、「ネオリベラルなウエイト付け」からおさらばすることの試みということもできる。
 もっと平たく言えば、金持ちみたいな考え方や意識に自己同一化しないことの試みともいえる。別の言い方では、「経済学は個人の行動の予測を目指し、人類学は集団的な差異の理解を目指している」というのだ。この世にたったひとりっきりで他の誰ともつながらないというバラバラの情況にいるなら何をどう考えるかは「主流の経済学」になる。この、前半の認識は典型的なポストモダニストのそれと同じようなものだ。この前半部分に対する批判がデリダやローティへの批判へ通じている気もする。人類学は、現在の情況、この、前半部分の、それよりはるか以前の人間の情況について考えることなので、認知科学的な脳科学的なトレンドが人間の社会性の捉え方に移行しているのと連動している気もしている。だから、かなり、今風なのだ。
 
 それは全く異なる交換システムについての考え方「重要な人物たちが、富の蓄積でなく、誰が一番多くの富を手放すことができるかを競っている」ということを人類学は報告している。また、さらに言い方を変えれば、それは「消費社会」ということとの違いでもある。
 つまり、市場経済ということへの違和感があるということだ。
 民主主義を導入することが市場経済を全面化させることと考えているから、アメリカが中東で失敗するように先進国でも失敗が繰り返されるということなのかどうか。

 「民主主義」=「市場経済」=「消費社会」、???。これをひとつひとつに、「民主主義」?「市場経済」?「消費社会」?にくっつける。
’=’によって、それぞれの議論を融通無碍に他のものでの議論にすり替えていつも先送りにできるということ。つまり、つねに間違う予測を常に先送りにするという経済学の発想そのものからいったんは離れましょうということかな。
 
 環境によく適応するということにだけに特化する、いわばアフォーダンス的なもの中心主義のような、ドーキンス的な遺伝子ゲームだけではもうだめで、そうだとしても、ドーキンス・ルールを破ってしまう集団的な淘汰を考えることに直接行くのはなかなかに難しくもある。もうそれは科学じゃないだろうというわけ。最近のエドワード・O・ウイルソンが彼の本でさかんに集団的な選択みたいなことを言っているがそれを翻訳している訳者はそれを莉まともに受け入れるなと警告を書いているようだし。
 ドーキンス・ルールでは、生物の体の組織の発展が説明できない。どうして単細胞生物と多細胞生物がいるのか。なぜ生命は複雑化していくように見えるのか。自己複製子だけの世界でいいじゃん。そのドラスティックな変化の起こる理由は外的な効果によるものだというのだ。
 地球物理的な大規模な現象が起こって、突然に環境が変わってしまうとか、大きい隕石が落っこちてきて、大量絶滅が起こったからとか、いうのである。たぶんそうなのかもしれない。人類が突然大きな脳を持つに至ったのは、アフリカ大地溝帯の巨大変動に伴って放射性物質の拡散が起こりそれが突然変異を引きおこしたみたいなことを言う人もいる。(何かちょっと質の悪い冗談を言いそうになるが我慢します。)。こういうのは直接この本とは関係ないので忘れていいです。
 
 それと言葉の問題がある。つまり、言葉の意味や価値がどうなっているのかというようなこと。ここで構造主義が出てくる。意味は全体の中での差異である。赤という色に意味が可能なのは赤でない他のすべての色がそろっていて初めて意味になるということ。モノクロの世界で赤は可能ですか?みたいなこと。それは意味がない。意味とは全体の中での差異であるという否定的な見方の全体論的な説明が構造主義だった。
 

 モノクロはダメでも、ももクロなら可能性は存在している?ももクロの世界には優先する価値がある?単なる差異の体系ではない、「かわいい」の世界、があるのだ。
 これは、「名誉」、「人気」、「富」、「権力」、というような、「低位」の価値ではなく、生にとっての究極的に大切なものについての観念になっているものである。
 社会の観点に立てば「かわいい」はある種の宇宙論的な儀礼を執り行うためにだけ存在する。そして、宇宙論的な儀礼とは、中心的な価値群とともに社会全体を再生産するためのものなのである。「かわいいもの」だけが回帰するのである。
 
 わかりにくいかもしれないなら、「オタク」にとっての価値とは何かを考えればわかった気になれるかもしれない。「オタク」はものを集めたりイベントに出かけたりするけれど、常識とは違ってそれは経済とは無関係なのである。それは選択することとは違う。「オタク」には、選択されたものが競争に勝ったものがアイドルであるのではない。
 ヒエラルキカルな価値は本質的な優越性の問題になるのだ。回帰するものに魅かれているのだ。ニーチェ風の永劫回帰の哲学をアップデートするなら「かわいい」だけが回帰するのである。同じものが回帰するのだが、同一物の永劫回帰、しかしそれは千差万別であってひとつとして同じではないと感じられるであろうと期待されている。予見不可能性、創造性、そして何よりも変化。だからそれは選択なのだが、近代的な個人が有用性や快楽を求めるようなことに終わるものではない。消費されるものではないのだ。彼らは飽きることなくずっと持ち続けるのだ。
 どうかしてるよね。個人の動機から出発するのに宇宙論的な儀礼にまで到達しようとしているのだからすごいことなのかもしれないね。
 人間であるということがどのような意味を持っているかについて、その可能性について、少なくとも彼らは彼女らは感じているのかもしれない。夢を見ることがなければ生きていることになんない。それを求めて😊でかけていくんだろうね。
 
 赤の意味というようなことから赤への欲望へいくんだということ。「文化を、世界を知覚するための多様な方法というだけでなく、どう生きるべきかということについての、いわば道徳的プロジェクトについての多様な想像のしかたであるという、と捉える可能性を切り開いた」のだろう。この見方は大部分の知識人たちの出発点とあまりにかけ離れていたので、まったく無意味に思われてしまった。そういうことなので価値の理論は考えることに値するのだ。
 赤の意味は、構造主義的には、相対的なものでしかないが、それほど否定的に考えることもないだろう。生物学はゲノムを取り出して分析できるようになった。ヒトゲノム計画で分かったことはそれが予想を超えて複雑なものであるということだった。DNAのまとまりである生物のゲノムの意味は、他のそれらとの関係に過ぎないという以上にそれ自身で複雑で興味深いものであった。赤はそれ自身で興味深い複雑な存在であるということ。それは人類が生命の頂点にあるというような優越性を持つということではまったくなくて生命そのもの持つ興味深さへと人類の意味が溶け込んでいくのだった。この複雑さの真実にはわたしたちの理解の欠如ははかり知れないほど大きい。  
 真実はわたしたちの思っていることはかなり違っていることが多いことにこれからは何度も知るのだろう。こうして、また、人間の意味は回帰してくるのだ。
 
 
 

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