いまどきの自由って何だろうと思う。『ケの日のケケケ』は面白かった。

 個人の自由が最優先だと今時の人ならたいていそう考えている。移動の自由に職業選択の自由に婚姻の自由に生活スタイルの自由、いくらでもあるでしょう。誰もが平等というのも同時にある。Aという人の自由な活動のためにXという人が義務とまではいかないけれどなにかを負うようなことも受け入れる。この逆もある。
 自由は平等、平等は自由。A=Xであればだれも文句は言わない。もともとはこういうことは適当に気分次第で関係性次第でなんとなく行なわれていた。
 人を助ける、人の言うことを聞く、無関心でいる、おせっかいをする、ひとにたのむ。傷つくこと。同じことと違うこと。人を助けない、人の言うことを聞かない、人に頼まない、おせっかいをしない、傷つかない、いろんなことができること。
 自由というのがよくわかんなくなってるのでかなり突き放したところから言ってるように見える本から引用してみる。
  
 「したがって、核家族システムの二つ目の原初的要素、すなわち柔軟性も考慮に入れることが欠かせない。この柔軟性には、若いカップルが彼らの両親と一時的に同居する可能性のみならず、独りになった老人たちを彼らの子供たちが引き取ること、あるいは、食糧が不足する場合にはその老人たちを切り捨てることも含まれる。柔軟性は、同じ理由で子殺しも可能にする。一夫多妻、一妻多夫、離婚、そして同性愛も許容する。ホモ・サピエンスはきわめて自由だったのだ。西洋的人間は、ユダヤ教とキリスト教によって部分的に加工された結果、その自由のうちの多くを失った。狩猟採集民の諸グループが生き延びるためにおそらく必要だった自由なのだけれど………」とエマニュエル・トッドのたいそうなタイトルの『我々はどこから来て、今何処にいるのか?』という本にこう書いてあった。ある意味でこれは真実なのかもしれないとは思うけれどわたしたちは文明社会の住人でもある。

 その自由のうちのうしなった何かが、依然としてまだある何かが、ときおりあらわれてくることがある。
 こういうことが、身振りすること、演技すること、想像上の物語で、演劇として小説として、技術的に可能になったテレビドラマという手段があるので多くの人々に伝わっていくことができる。それは基本的には人間が演じることが理解できて、それを見ることで何かを感じて想像することがでる。このテレビドラマでは登場人物たちがそれぞれにそれぞれの人間関係にみごとなひねりを加えることになっていき、それらの人たちの行為に彩を加えることになる。よいことも悪いことも、思い込みで済んでいたこともいまは常に裏切られるようで、えっそうなってるのとなる。何かを自分で感じたり考えたりしなければならないのだけど万人が納得するようなものはない。
 21世紀になってわかったことが何だったかというと、自然に起こる災難や人の引きおこす災難や、誰かの幸福や誰かの不幸に共感してもすぐに次があらわれてくるから忘れ去られていく。
 「生き延びるためにおそらく必要だった自由」とは何だろうか。これがいまどきのテレビドラマのテーマに見えたりしないだろうか。なんてことを感じる。
 いまよく見られるテレビドラマは、その多くが、女性が中心に近いところにいるもののようだ。人間社会の制度的な発展は男中心であるのだけれど、例えば家父長制など、それがすでに破綻して機能しなくなっているときにそこに空白ができるので、そういうドラマが見られるというのは当たり前な気もする。
 現在の人間の社会はかなり豊かな社会である。その豊かさを利用するにはかなり効果的で機能的な学習が必要である。ところが、そのような事実があるにもかかわらず、先進国の人間たちの間では教育の停滞が起こっているというデータが多くある。もっとも女性の高学歴志向は終わってはいなくて男性のそれを上回っている。しかしそれが女性の地位やリスペクトの向上につながっているとは言えないようである。人間が自分の都合がままならなくて人間ひとりひとりにとってあまり恩恵を施してはくれないようなら、純粋に技術的な発展に期待するほかないようだが、技術の発展や科学の発展も偶然にまかされることが多いからどうなるのかはわからない。このドラマの主人公の女の子はそういう障害みたいなことに悩まされている。
 SFになってしまうとデストピアものになるけどこれはテレビドラマなのでかどうかわからないけどそうはならないようである。
 男と違って、狩猟採集民たちの生活にあったある種の知恵がいまだに女性にはあるのかもしれないから、女性が中心にある物語が来ているのかもしれない。  
 技術発展は何でもかんでも可能性の箱をどんどん開けてしまうからどうしょうもないものもあふれ出て困ることが多いけれどパンドラの喩ではないけれど最後の希望が女性の柔軟さと自由さであるというのだろう。排除されバカにされて輪の外に追いやられていた存在が力を発揮するというのが物語を進展させる源ではある。
 こういう物語では男はなにをしているかというとそういう女の後をついていくとだいたいうまくいくというのが多いようだ。気楽なようでもたぶん今のご時世ではかなり勇気のいる男らしいことなのかもしれない。こういうのはなかなかひねりがきいていて面白い。最近NHKでやっていた創作テレビドラマ大賞受賞作の『ケの日のケケケ』を見たらびっくりしてこんなことを思ったのでした。
 なかなか複雑な題材なので簡単に感想をいうのが難しい。ひとりひとりのキャラクターたちについてそれぞれについていいたいことはいろいろありそうでそれがなかなか面白い。これまでにあるこういうことを題材にしたドラマではわりと直接的なやり取りとか対決とかが中心にあったのがこのドラマはすれ違いながら迂回しながら戻ってきたりはなれてみたりする。こういうのはむかしだったら、生きる知恵とでもいうものだったのかもしれない。
 主人公の女の子の思慮深さといっぱいいっぱいさがおなじ人物に同居しているのが興味深くおもしろかった。それは今までにはない新しさで世の中変わっていくらしいかもしれないと感じた。

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