荒唐無稽な望みにいまだ基づいているように見えること。ひとの記憶は当てにならない。今回の補選は面白かったか?

 当てにならないと頼りにならない。これは似てるようでちがうというが、「当てにする⇒頼りにする」、「頼りにならない⇒当てにならない」、なんて感じだが、距離を取ってみたら、こういうことなんか考えるのも、荒唐無稽なのだった。
 何を言いたいのかというと、今回の補選の感想なのであった。当事者たちにとっては、「ひとの記憶は当てにならない」であったようだ。とはいえ、本人にとってはどうだったんだろうね。このことに違いがあると思い知った人もいたようでしたね。ところが、はじめからこれを見越してスルーしちゃった人もいて、そういう連中はいまだにこれがわかんないまんまに見えますな。という、感想もありました。アメリカ行ってたりしてなんだろね。

 選挙にいったひと、いかなかったひと、今回は、いかなかったひとについて考えると何かわかったのかな。理性的に考えてかどうかはともかくとして、選挙にいかなかったひとは、その前後で感じること考えることは変わらないと思う。
 4月28日は、天気はとてもよくて散歩にでもいってあくびをしていたような感じだったな。テレビで春の天皇賞競馬がやっていた。見事なレースで、勝ったお馬さんも乗り手の若い騎手君も大喜びで浮かれていたみたい。いい思い出になるんだろうね。おめでとうです。

 選挙を国会に関係づけると、選挙にいったひとは荒唐無稽な望みのあるひともいたのがわかったかもしれない。そうでないようなひとはますますもって「荒唐無稽な望み」を強化しちゃったかもしれない。そういうひとは、日本の産業の潜在力と大規模な戦争準備とからすれば、日本はこれから勝利を期待できそうに思えてしまったのかもしれない。えぇっホント?馬鹿じゃないの、そう思わずそう口に出しちゃったひと選挙にいったでしょ。あんたはとっても正しいとってもマトモでした。ほめてもらいたいよね、ほめてあげます。いいこいいこいいこだね。
 ところが問題はあんたなんかじゃない。あんたみたいじゃないひとたちもいることです。これは、ホント、大変なことだよ。いかに説得力のある理性的な議論も、なんていうんだろう、「愛国的な心理的理由」というものには打ち勝つことができない。何でかというと、はじめからスルーしちゃうんだから。
 こういうことはなにも日本だけに限ったことではないようで、先進国グループのえらい人たちもなんかそんなそんな感じで、どうなるんだろう。「荒唐無稽な望みみたいなことにいまだに基づいて」平気なんだから。
 わたしはテレビで競馬を見てました。つよいおうまさんと若い騎手君が一生懸命に走って見事にレースに勝ちました。よかったですね。また競馬かよ。おしまいにします。

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