統治のおはなし。それは力の支配とは違うらしい。投資のおはなし。隠れた秘密の愛があるらしい。サルの社会や猫の社会で遺伝子を調べたら意外だったこと。

 人は社会というような大きなまとまりでいる。そのなかにはまた部分的なまとまりがある。これらの集団の関係がどうなるのかということと支配することの関係はどうなっているのか。
 人のまとまりを問題なくマネジメントするには政治的な制度をつくって統治する。君主制、貴族政、共和制、民主制、など。制度はその社会が求めていることとほぼイコールなのでそうなってる。まるで芸術作品のように、形式と内容は一致する。王様のいる社会は王様がいるみたいな物語のように生活習慣が形作られている。内容が形式を創りだしていく。それはパッケージデザインみたいにパッケージの中にまた似たような小さなパッケージが詰まっているみたいなそういう秩序だ。そうしたデザインは多様である。しかし単に箱を箱の中に詰め合わせただけのものじゃない。
 
 江戸幕府は統治の形式としては封建制になるけれど経済はコメ本位制?みたいなものだった。年貢がきついとみられるが実はコメ食って生きてたわけじゃなかった。ほかに雑穀や魚や野鳥のような食べ物はいくらでもあった。コメは資本にならないので社会は厳密な意味では統治されていなかった。つまり経済は統合されていなかった。その分だけ人びとは自由に任されていた。それゆえ社会は国民国家のようには発展することに興味を持っていなかった。科学技術、医療技術や知識は進歩しないので定常的な社会になっていた。進歩や発展は、それは小さな地域性に限ることだった。そこでの最高は昔からある老舗の商品やサービスであった。これはその地域全体をカバーするものではなくていくつか対抗するほかの老舗や新しく開店する店があるのが望ましい。
 権力は大きく成長しなかったし資本も大商人は出たが大資本は、つまり限りなく成長していく複利的な発達はなかった。俳句や歌舞伎、浮世絵や工芸などは発展したが小説や美術や音楽や科学や産業は生まれることはなかった。
 日本を考える時にこの点は重要である。パッケージデザインになってる。形式=内容なのだ。つまり、統治形式は内容から決まるのである。これが日本では理解されていない。それはあまりに西欧一辺倒な知識人たちのありかたから来ている。なんというのか、意識中心主義とでもいうのか、これが失敗の原因になっている。国家論は身体論でホッブスのリバイアサンのイラストのようにたくさんの人間たちがかたまって一つの身体ひとつの怪物をつくるのではない。

 日本では小さなかわいい気楽なキャラクターたちが集っているというのが国家の形式というものだった。古事記のおはなしみたいなもの。
 武士というようなもともと単に暴力でしかない力があって恣意的に人を切り殺す。この暴力との対抗関係で安定性が維持される。統治の実践は自然にゆっくりと安定してまた崩壊していく。力が集まってきて感染して意気に感じたものたちのあつまりのどれかが権力を手にする。負けるとあっさりとあきらめる。殺されるものもいるがたいていはあっさりゆるされてまとまりの中に自然に入り込んでいく。
 
 サルの集団を観察をしている進化生物学者というのがいてテレビのドキュメンタリー番組で友達とは何かについての説明を見た。
 それによると、親密で仲の良いきっちりした割と小さな友だちどうしのあり方があって、ほかにはもっと緩いさほど親密ではないがひろく多くのまとまりの集団がある。あともう一つ、まったく孤独な生活をしているのもいる。進化つまり適応を問題にしているので、それは自分のもつ遺伝子をたくさん残すこと、したがって個体のパフォーマンスが問題なので孤立モードは問題にならない。包括適応度という考え方。
 ところが集団の全体を考える時にはこの孤立相の存在の意味を考えなければならないだろう。ところがこれは無視されるというかそういうパラダイムになっていないので論文になりにくい。学問ビジネスの問題といってしまえばそれまでだけど。

 しかしそうした孤立的なことを好む?個体が必ずいるということは遺伝子を調べればそうした遺伝子をもつ個体も生殖の機会にまったく恵まれないということはなさそうだ。
 ニホンザルの研究に女性の研究者が出始めたころ、ある女性研究者がサル社会の生殖の関係を調べたら意外なことに必ずしも有力な個体のこどもが多いのではなく順位の低い個体のこどもも少なからずいるということがわかった。女は目のつけどころが違う?と感心されたそうだ。個体と個体の友だちの関係と生殖の愛の関係はどうやらかなり違うようである。もし単にたがいにグルーミングしあう仲の良い集団があればそうでないそれほど仲の良くないこともある集団よりも生存上は有利だという理由でそういうタイプばかりの集団へ淘汰されていきそうだがそうにはならない。隠れた秘密の愛があるのだ。ちなみにこういうことは野良猫たちの集まりでも確認されているという。 

 サルの観察結果から一挙に人間のところへ飛ぶのには無理があるが考慮すべき論点にはなるだろう。人間には興味の多様性があってその或る特定の志向対象について興味の対象のそれぞれに集団形成がおこる。

 例えば金融資産の形成について投資について緊密な集団を形成しているものもあれば、それほどでもないが投資をしてみようかなという集団もある。まったく興味を示さない人もいる。 
 こういう観点ではまったく友情みたいなものとは関係がない。単にお金が増えるのに興味があるだけ。ところが投資は基本は二人称的な人間関係である。こういうことしようとしてる人に応援したい仲良くなりたいこの人のもってるヴィジョンは嬉しくなっちゃう。みたいなことならそれは友達関係やグルーミングの関係とそれほど離れてはいない。やはり隠れた秘密の愛みたいなことがあるのだ。そうじゃなきゃぜんぜん面白くないでしょ。

 共通性は実は異質性にも向かうみたいなこと。異質性についてはいつもは忘れていることにしている。ところがそこに秘密の愛が隠れていることができる。このことの重要性についてはまだそれほど考えられてはいないようだ。一人称三人称問題と二人称問題はこういうところで交差しているようである。三人称的なものたちの集まりから一人称が選択する。これでマッチングさせる。それほどすぐに最適化❔できるとは思えない。
 
 マッチングアプリみたいなもので考えてみると一人称三人称ではその情報量は単調に増えるだけである。しかしそれを適当なところで受け入れるということは二人称的な解決法がおそらくあるということなのだろう。まぁなんというのか、秘密の愛の可能性と期待があるのだろう。裏側ではこういうことがあるから表側のマッチングアプリも期待されて受け入れられるのだろう。見合い結婚の秘密みたいなこと。昭和の向田邦子のテレビドラマのテーマにはこういうのが人気があった。秘密の愛、いいと思いませんか?

 サルの社会の観察の表側しか見ないのでは重要なことがわからない。表側を見るとそこでは有力な個体たちが群れを支配しているように見えるが実は違っていたということ。エリート支配は単なる見かけで実は群れとは全員参加の民主制で統治?されているのかもしれない。どう考えてもそうは見えないが実はサルの社会はその一番の底に民主制があってそれがデフォルトなのだ。当然人間の社会も民主制なのだろう。しかしそれは表側にはけっして現れない民主主義なのかもしれない。議会制民主主義は選挙制度に過ぎない単なる票の奪い合いならあまり期待は出来なくなっていく。そこに秘密の愛はあるのだろうか。国会議員どうしの結婚なんてことがあったな。ひみつの愛じゃないけどね。

 隠れた秘密の愛というのは自分にもわからないことなのだろう。自覚的にその愛は心の内側から来るのではなくまったく偶然の機会による外からやってくるもののようだ。おもてにあらわれることのないけれど少しは気がつき始めているという愛のテーマは無意識的には求められ始めているのだろうか。

 春は愛の季節、ロマンチックいいね。必要なのかもね。

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