オッペンハイマーはもういいから日本のことはどうだったか。手塚治虫は鉄腕アトムと原子力の関係にうろたえてしまう。戦後の日本の科学は鉄腕アトムがヒーローであった時代の科学であった。アトムのことをちょっと思い出した。

 「手塚さん、鉄腕アトムが胸に原子炉を入れて空を飛ぶというのは危なくないんですか」って聞いたら手塚さん顔面蒼白になって黙っちゃったんです。中沢新一の対談集にはそう書いてあった。
 手塚治虫にとって、医学や科学やテクノロジーの問題は、よくわからないままだった。彼がどう考えていたのか。
 それで「あっ、まずいこと言った」と思って、後で手塚さんに「場所柄もわきまえずすみませんでした」と平謝りしたら、「いや、それはね、僕も考えていることでね」って、しんみりしちゃいました。」。
 このエピソードは細野晴臣との対談で話されていた。YMOはコンピュータ胸に入れて音楽を飛ばした。そしたらどうなっていったか。
 細野晴臣は、「ところが筑波の科学万博(85年)があって、これが惨憺たる博覧会だった。子ども向けのロボットなんかが恥ずかしかったですね。未来はもう駄目だと僕は思って、そこでYMOは終わったわけです。YMOというのはもともとSF的なアプローチでしたから。」というのであった。

 今から思うと不思議な感じもするのだけれど、あの頃までは、科学をまったく素朴に直接的に子供も大人も関係なくあたり前に夢見ていた。それが鉄腕アトムだった。YMOもそうなのかな。細野晴臣は鉄腕アトムが恥ずかしかったのではないけれど未来はもう駄目だと思った。わたしたちただのファンはついていくだけでそれでもゆっくりと「未来はもう駄目」に近づいて行ったのでした。

 このエピソードの意味は、どういうことなんだろうか。日本はあるときから科学をやめちゃったということなのだろうか。あんがいこれは正しいかもしれない。社会を先頭切ってひっぱっていくのは科学だ。
  鉄腕アトムは1950年代前半に少年向け雑誌で始まった。そして1960年代後半まで続いた。テレビ放送が始まって東京タワーが建って首都高速と新幹線と高速道路が東京のイメージになった。その後は単に東京というのではなく、はじめて新宿という街が文化的な意味を持つようになる。そろそろ環境汚染が問題化して公害や大気汚染が現実なものになる。経済成長が始まって環境問題に対して積極的に向かうという合意みたいなものができていた。そして日本の自動車がアメリカの環境基準をクリアするようになる。ここまでが鉄腕アトムの科学だった。この後から実質的な経済成長が具体的にはじまる。私鉄沿線に団地ができて住宅地開発がはじまり家を持てるようになる。洗濯機、冷蔵庫、テレビ、ステレオ、クーラー、が標準化してその後の世界基準になる。子供部屋ができて受験勉強がはじまる。自動車で遊びに出かけるレジャーもできるようになる。戦後の夢が具体的な生活になって鉄腕アトムの科学は退場する。アトムからアポロ計画になり人類は月に立ち宇宙から地球を眺めることになった。楽天的なSF的な想像力が可視的になってひろがりその戦後世界のひとつのファンタジー物語の結末をみているような気持になった。これはひとつの時代の終わりでこどもが喜ぶようなナイーブなSF的なアプローチが流行らなくなっていく。日本のSF的な想像力は鉄腕アトムのナイーヴで楽天的なものだった。ある意味とても建設的で未来的な自然環境の美しさと宇宙的ヴィジョンとが矛盾なく両立しているというもの。
 
 いまから思うと、このSF的な想像力の特性にある本当の良いものとは、際限のない力に向かうことはでなくて自分で決めた限界を持っていようということだったのかもしれない。不思議とわたしたちその頃の読者であるこどもはアトムのパワーアップについてまったく無関心だった。もっと強くもっと巨大になってほしいとはまるで思いもしなかった。
 
 今から思うとそれは、アトムたちのようなロボットの持っているやわらかで生き生きとした子供っぽいかわいさが大好きということだった。かわいいを越えてしまうのはこわい。もうお友達でいられなくなっちゃうのは嫌だ。こわくなってしまうロボットの悲劇のエピソードもあった。
 かわいさのなかでしか夢も未来も幸せなものであることはない。そういう感じだったのだと思う。これは手塚治虫たち戦後の漫画家たちの最初の意志だったのかもしれない。このせめぎあいが彼らそれぞれの漫画のテーマになっていく。かわいさから成長していくキャラクターたち。それはそういうナイーブなかわいさから離れてしまうことでもあった。
 
 気がついたら、いつからかそういうかわいいSFものがない、何故だろうか。中沢新一がうかつにナイーブな血迷った質問をしてしまう。それは決して悪い質問ではなかった。直接に聞いてしまったのはある意味ではとてもいいことだったのかもしれない。顔面蒼白になって黙ってしまう手塚治虫先生。
 
 手塚治虫は目を閉じてしまったのだろうか。かわいいが目をつむってしまった?日本の科学はその時から眠っているのだろうか。もちろん、「言葉が眠るとき、かの世界が目ざめる」ということもある。それはそれですごいことになった。これはまた別のおはなし。
 
 季節のめぐりがどうしてわかるのかといえばいくつかのものたちが次第に同期していくことに気がつくからだ。ひとにも自分にも周期があってそれがそれぞれ戻って来てそれらがシンクロする。最初のヴィジョンに戻ってくる?って、そもそもそれってなんだったんだろう。
 共同体にとっては、かわいいというものは一時的なもの周辺的なものだった。つまりそれはもともとから共同体にあるものではない。一時的なということは言葉が適当であるかどうかわからないが、それは個人的なものであっただろう。個人と個人の秘めたる関係みたいなこと。共同体の規範を少しはみ出してしまいそうなもの。普通は諦めてしまうのがいいのだけれどついはみ出してしまうこと。向こうがわにいけばスッと消えてしまうもの。しかし逆にいうとそれが際限のない力の拡張をとどめる限界を教えてくれるものでもあるのだろう。
 共同体は発展して大きな都市になりあらゆるものを集めていく。しかし生活はそうでもなくて都市とは別な在り方を守ろうとする。共同体的な規範は都市の決めたルールになり共同体はひらかれてしまって一時的な関係の続いていく連鎖だけが生活になる。ともすれば無目的に盲目に発展していく都市的な力は一時だけそこにあった生活を社会が変動するたびにすぐに消してしまう。また都市には大惨事がつきものでおおくの人が亡くなることも人の一生の周期のなかにはあることだ。
 
 ところが都市は共同体ではないのでただの人のあつまりからなるだけなので悲劇という感覚にはならない。それでも残るものがあってそれは他人の思い出みたいなものかもしれない。それらのなかにはかわいいというものがあった。そういうところから手塚治虫の科学の世界にそれらが流れ込んだのだった。手塚治虫の科学の世界にはそういう何というのかはっきりしてはいないがそういう盲目的な無目的な力がなにかを破壊してしまうことへのおそれや子供らしい反省がもとにあるのが感じられる。そういう心は漫画を読む子供の心のなかに憧れを生みだした。以心伝心に伝わってくる。

 かわいさと倫理的な感覚には深いところでつながっていたのかもしれない。こどものことなのではっきりとしたことは意識化されない。善と悪とか敵と味方とか対立にはっきりとした決着がつくことに関心が続いていかなくて、怖いとかおっかないとかやさしいとか親切とかかわいいとか気持ちの安定の方が大切になる。
 というのでこういう感覚は愚かな低学歴の庶民的なものとして無視されていく。それが漫画の世界に生き残る。忘れられたものたちも自分のこと半分忘れたような幽霊ならかわいいものとして遊んであげることもできる。
 
 意志疎通はマストじゃない。わかること以前からの世界があって気持ちは通じないけれども愛があるのだ。袖ふれ合うも他生の縁。これが可能になるのは大きな都市が成立していなくちゃだめだ。ゆるい不確かどころかまったく関係ないけれどあいまいにひろがるひとのまとまりのあること。

 そういう世界の上には、これとはまったく違って権力者たちの小集団の親密ななかまどうしのよくわかり合っている私的な関係がある。これと庶民たちとの正反対な関係性がここに作用して緊張関係があることが意識されていればそれが原初的な民主主義になることだって可能なのだろう。
 これが最初のヴィジョンだった。理屈っぽくなっちゃったかな。無視していいです。

 人のあつまってるということはいつもその中に見知らぬものが入ってくることに寛容であることで、その入ってきてしまうものたちといっしょにあらかじめ何の意図も思わないままにそれらが育ってしまって、そのプロセスであらたなものを身につけることができて、そうやって動いている世界に適応してきたようなところがある。異質なものでも異質だと思わなければ、つまり意思疎通をマストだとしなければどうにでもなる。
 わかんなくても対話みたいなことならできそうだ。もちろん、意思疎通をいつも望んでいるのを否定するのではない。
 しかしそれにばっかり拘泥するとスムーズに意思疎通できるように自分のことを書き換えればいいということになって望むものに強制的にでもなるようになってもともとの自分が自分だったことから越え出てしまう。意思疎通は権力関係になりやすいので自分を犠牲に大きくすることをしていく。支配するされるというのはどうもね。
 そうならなくてもいいために自分であることにとどまって自分を簡単に捨てたりしないこと。それが「かわいい科学という発想」になるといいたい。無理に危ないことしなくてもいいよ。

 意思疎通をするというのは連続的な境界をひくということだ。ところが意思疎通できるものなんてほとんどない。石ころや木や路や崖や風や水の流れや、人工物であってもいつも正確に「意思疎通」が図れるわけがない。すべてに自動運転技術がはいっていてそれらが正確につながった連絡網を作れると思うのがどこか間違いで現実はそうではないらしい。
 
 世界というのは、離散的なバラバラの点の集まりであって、それらの点と点が偶然に気まぐれに応答し合うだけなので、意思疎通というより以心伝心なものだ。力ずくじゃぁダメってこと。これを最近のテクノロジーでは分散的といってるようです。議論をするより対話で済ます。そんなんでいいのかな。

 オッペンハイマーも変な奴で愛嬌だってあったあいつはおもしろいと才能知られたなんか面白いことないかのオッピーちゃんだった自分を越え出てしまってなんだかどんどんひっぱられていってついにトリニティ実験成功までいってしまった。もうもどれない。こういうお話がアメリカでヒットしているという。

 もうもどれないというオッペンハイマーのお話を感情移入して見るとなんか思うことがあるでしょうということなのか。
 科学者の責任というテーマはいまではだれも考えることもない。やたらと個人の欲望や意志に負荷のかかることになんかにならないように、責任問題が回避できてるように今は組織はそういう設定になってるだろうし。
 今はちゃんとうまくコントロールできるんでしょ。巨大行政組織もグローバル企業も外部監査がしっかりできていればメディアがちゃんとと機能していれば怪しげなことはなんとかやめさせることができる、なんて思ってんの。どうなんでしょうね。コロナ危機の時に科学は巨大な資金力を持っているグローバルな製薬会社の存在がわかった。こういう存在は民主主義でコントロールできるものなのか。本当に信頼性はあるのかなど考えさせられた。科学がどういうものになっていくのか不安ではある。医療技術も情報技術も軍事技術も、こういうのがこれからの科学のメインストリームだからそれらは一般的な庶民たちからはるかに遠いものになっていくだろう。科学のもっている性質の中心がどういうものになるかというテーマで始まる物語は必要なのかもしれない。

 人間たちには破壊への衝動がある。それはまた創造への衝動であるか。
 これではアナーキーで困る。馴致されねばならない。それが、スクラップアンドビルドという。創造的破壊。イノベーションでなければならないのだ。オッペンハイマーの子供じみた物語とはアナーキーがイノベーションに回収されるというお話のように見える。
 日本などでこの映画に苦情を言い立てる人たちは、アナーキーな破壊の惨状についてスペクタクルに見せてくれないことに不満だという。アナーキーなオッペンハイマーにたいする断罪がたりないとは思ってはいないようだけど。
 政治的にはスムーズに「イノベーションに回収」されて見えるのでなければいけない。「アナーキー」から「イノベーションに回収」という路線の必然性は揺らいではならない。
 なんか不穏なこといってる気がしてきた。
 
 鉄腕アトムはどうして産まれたんでしょう。それからいろいろあって、なぜ死ぬのでしょう。なぜアトムはこころやさし科学の子なんでしょうか。
 確かテレビシリーズではアトムは自分を犠牲にして地球を救うのだった。アトムは小さなものたちの世界を救う。その世界は法的政治的経済的秩序の維持のためにそれがいかに欠陥だらけであっても腐敗に満ちていたとしてもその秩序は救われなければならない。大きなもののために地球を救うというよりかはわたしたち小さなものたちの秩序を助ける。それに感動するのだった。こころやさしロボットはイノベーションに回収されるのだった。

 これは悲劇なんだけど、視聴者はそのように感じて感動するのだから、ところが、機械はおなじものをつくれるから、同じものが再生されてその代わりが来るのに、なぜそうなのに感動するのか。人間とロボットの矛盾がある。

 「アナーキー」でも「イノベーションに回収」されるものでもないもの。

 ロボットには禁じられていることがある。「想像力、創造性、その先の、生産、あたらしいものごとや社会的ありようを設定する能力」は、求められているようで実は微妙な問題になる。

 もし、鉄腕アトムのようなロボットが存在するなら、どうやって作られてきたのかを現実的に考えたときにどうなるのだろうか。現実的な「こころやさし科学の子」が「かわいい科学」というものが求められてつくられるとしたら、現実的にはどういう物語が来るのだろうか。

 アトムの自己犠牲というお話はわかるようでいてどうもよくわからない。自己犠牲がすんなりと心に入ってくるには一体感のようなものが必要な気がする。ところがどうもそういう感じではない。なんか切羽詰まった危機を超えるためにというようなことってあの時代にあったのだろうか。
 もちろん鉄腕アトムが自分を犠牲にすることで地球は救われるということなのだけど、なぜかアトムの方にはそういう悲劇の感じがないような気がする。悲劇というよりむしろ別れなのだ。
 「こころやさしいかわいい科学」があったとして、それとの別れ。わたしたちがもうそういうものを必要としないこと、次第に離れていくようになること。それをアトムも知っていて。そこにたまたま地球の危機が来た時に、渡りに船とまではいわないけれど、これを機会によい別れをしよう。そういうことなのではなかったのかという感じがする。

 天馬博士という天才科学者がアトムをつくった。この人はヒーローではない。感情的なアンビバレンス、道徳的危機、不安、自己懐疑、複雑な劣等意識、そういうものに悩んでいる。そういう人物である。本当は何か秘密の目標を追求する狡知に長けている何を本当に考えているかがわからない人物である。科学のダークサイドの方に親近感のあるような人物である。

 しかし彼の天才的なところは、その想像力、創造性、生産性、あたらしいものごとやそれまでの社会的なありようを刷新してより素晴らしいものをもたらす並外れた能力にあった。それが彼自身のダークサイドをはるかに超越したかがやくこころやさしいアトムを創りだしたのだった。
 この天馬博士とアトムの間の矛盾が、やがて、わたしたちとアトムの間に距離をつくるようになっていく。それを一気に元に戻そうと一気に縮めようという意識に上がってこない欲望があのような終わりを求めてしまったのかもしれない。
 アトムの自己犠牲によって救われたことになっているが実はアトムのもつこころやさし科学と別れてしまったことなのだったと思う。
 自分自身を良い方へと越え出ていく科学とダークサイドに魅かれ気味な天馬博士的な科学があるということではないが、暴走しないように監視されているなら天馬博士の科学のほうがいいということなのかもしれない。こころやさし科学の子であるアトムはロボットだから、成長はしないで少年のままだ。もちろん、こころやさし科学の子のままだ。それではうまく世渡りできない。まぁそんなことでもあるのだろう。そういう複雑に捻じれた抑圧があって、あのような物語になったのだろう。

 科学は社会をひっぱっていく。知的好奇心、科学的な動機、自己利益、才能、アピールする魅力、資金を集めてくる説得力、公平な競争、などいろいろあって、それらをすべてまとめても、何ら明確な方向性は出てこない。全体としては、科学は盲目なのだ。どこにいくかわからない。ならば、別れてしまったアトムのことを思い出すのもいいだろう。こころやさしさを忘れそうだし。もう一度、こころやさし科学の子のことを考えることができるだろうか。

  ノーランの『インターステラー』は主人公の娘のおはなしに続いていた。アトムの話をまたつくるのだとしたら少年ではなくて少女のおはなしになるのかもね。天馬博士はおばさんかな。そういうのはいろいろあってどうなるのかわからない。そこは複雑に別のキャラクターが出出来てもいいだろう。

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