人間はチューリング・マシンだとするのならば(もちろん比喩ですが)ならどうのようにプログラムがインストールされるのだろうか。場所、空間、人間関係のありようの問題。

 人間は集団の中で育ち生きるので学習ということが重要でそれなしではうまく適応することが難しい。生まれる過程で取り込まれる遺伝的なプログラムのシステムがあってそれは哺乳類と鳥類や爬虫類などと連続性がある。しかし学習の過程では人間は特異だ。これは乳幼児をどういうように育てていくのかを考えるとわかる。人類学者が先住民たちの生活を観察したことによると人間は小さな集団でくらしていて特に子育てはほかの動物と違って数人が協力して乳児を育てている。これが人類の特殊性の基礎になっているのだろう。ほかの哺乳類は子供は母親だけで育てているようだ。
 チューリングは数学の問題を解く人間を抽象化して人間をチューリング・マシンと見立てることで解けることとそうでないことを停止問題として考えた。それはカントの問いを数学で継承して問題を立てたヒルベルトによる思想であった。ならばそれを人間に適用してみれば問いの立て方を変えてみることもできる。というのでたとえば人間の成長について乳幼児にプログラムが連続的にインストールされるプロセスと見ることもできる。こんな調子で発達心理学や社会心理学の見方をチューリング・マシンの操作みたいな見立てで言い換えてみる比喩的な遊びみたいなことをやってみようというのだ。

 衣食住の多様性がある一方で私たちの近代的な社会ではそれらが驚くほど可塑的でどんどん多様になっていくのはいま現在の人たちの特徴であるのかもしれない。こういうことの起源は産業革命でたとえば産業革命以後の労働者の住環境に彼らがどう適応して変化していくことに資本家たちは意識的だった。ここで労働者たちにどのようにプログラムがどこでインストールされるのかというと労働者たちをどのような場所で生活させるかという空間の政治性の問題になる。たとえば集合住宅の設計。教育や食生活の設計とか。それらは似たようなプロセスと思えるのだった。これらは近代化とパラレルにすすむ。人間の行動様式がかなり可塑的で学習の設計が効果があることをヒトは当たり前のこととして感じている。これは動物の飼育の経験では家畜化ということがあったことからきているのかもしれない。それを自分自身にあてはめて再帰的に自分自身が変わっていくのが感じられるのかもしれない。何か特別なスキルを身につけることでは身振りや言葉が連なってある特別な表現となって明確化されたことが伝わっていくように見える。それは生活の場を或る程度共有するのパラレルですすむ。話すことは記述されて独立している文章と違ってリズムやメロディーやハーモニーがある。つまりコミュニケーションをフィードバックさせ整合化させ構造化させることができる。これは二人称的なことだ。乳児から幼児、こどもや青年といった発達心理学的なプロセスではこれがインストールのプロセスであるともいえる。これをコンピューターのうえでアプリケーションを積み重ねてラチェット的に戻らないように成長していくようなこととして抽象的に考えたのがチューリングであったのかもしれない。
 人間が具体的にどういう環境で生活するのかがインストールのプロセスになるのだった。

 先住民たちの生き方からの進展を「場所」で考えると人間の歴史が住居の歴史的発展として見えてくる。であるならいま現在の人間の「住居空間」は何であるのだろうか。それは急速に拡大発展していくコンピューターを基礎にした情報空間に移行していると見立てることもできる。今風に言えば便利なスマホに「住んでいる」わけだ。これは今段階ではただの比喩だが工業化していく社会において住居がどういうように設計されてきたかを考えると示唆的で資本家たちは当時の労働者の集合住居ではなるべく彼らが連帯できないように接触の機会が最小化されひとりの時間が持てるというか孤立化するように作られていた。なるべく彼らが日常的な余暇時間で触れ合う機会がないように設計されていた。談話のスペースがあえて取られていないということなど。それではあんまりなので集合住宅をどんな具合に設計したらよいかも考えられるようになる。戦後の日本は郊外の空き地に団地を建設する。その後経済成長が軌道に乗って生活が安定したら集合住宅的なものや下町的な共同性の住み方は郊外の不動産開発にのって一戸建ての庭付き住宅になり家族はさらに孤立化していくのだった。さらに子供は個室に入り込んで孤立化は孤独なオタクな生活へ移行したのだった。こういうことをプログラムのインストールの見方をすると都市化して郊外化して孤立化した住人たちの感性のあり方や行動様式が変わっていくのがわかるのかもしれない。身近なものならポップカルチャーの影響力がある。ロックミュージックや映画とか直接的な影響力があってそれが社会の暴力性と相関することはありそうだ。
 
 こういう見方をとると情報空間の設計はつまりアプリケーションの設計はインターネットの上でのスマホ的なものを通して個人に直接に働きかける。そしてそれが人間社会をどうにでも変えてしまうこともできるようにもみえる。学校や会社や病院といった空間は今までとはまったく違う性質を持つところへと情報空間的には一挙に移行するのだろうか。さすがにそういうことは全面化してはいないがみんな何処かでそうなるような気がすると感じているのかもしれない。アメリカではいきなり顕著になったように見える社会の分断はどういう個人にどういうようなプログラムがインストールされてしまうということの様相の違いからきているのかもしれない。分断されているというよりかは「どこか変な場所」へと一気にもっていかれてしまっているような効果の結果なのかもしれない。とにかくこういうことがこれからは頻繫に起こるのだろうか。

 スマートフォンのように頻繫にアップデートしながらどこかへと移行する。街も人も同じように変わっていく。

 情報化された空間の起源はどこにあるのだろう。もちろん新聞やラジオ放送ということもできる。また自分の趣味に沿った自分の部屋やそれができるような新しい賃貸住宅サービスがインストールの場所でもあるだろう。それがたぶんプロスポーツ観戦やロックコンサートの場所へ行くことを習慣化させていく。近代は内面化させることだとフーコーはいったが一方ではスポーツ観戦もあった。それは空間を体験することであった。スマホは空間体験することを再帰化させることができてアプリケーションの主要な部分は動画のシステムであるようだ。これを「空間」の体験レッスンみたいなことだと考えるといったいどういう生活のモードがつくられていくのだろうか。
 リアルな住環境の空間のインストールの仕方がサイバースペースのなかの情報空間の「住環境」でのインストールのあり方へと移行することを理解していくことでそういうことを可視化できるだろうか。
 いま現在ではゲームのつくりだす空間がロックコンサートやプロスポーツの空間の移行形態かもしれない。日常的な生活空間が次第にシームレスに拡張されて行く方向に経済波及効果があらわれるのかもしれない。

 そういうことに意識的になる場所はどこにあるのだろうか。ゲームの空間はもちろんだがいそがしそうでちょっとちがう。たぶんエンターテインメントの空間の中でならそれは可能だろう。文字メディアは間接的で理解することができるためには知的な準備が必要それは増えていくので負荷が大きすぎてしまう。エンターテインメントは直接的で生活の経験に近いから個人に働きかけて考えるプロセスを動かせるだろう。そう考えるとエンターテインメントの概念は急速に発達拡大拡散している。ベンヤミンが映画について考えたようなことが重要になるのかもしれない。インストールの「場所」とプログラムが走っているのを関係づけ統合するやり方が物語のストーリーとしてあらわれてくるだろう。それがゲームの世界を変えていく。また労働がその様相がコンピュータのうえに一部であるか全面的にであるかはともかく移行するから、労働はゲームに近づいていく。いま人はどこにいるのか考えるしかたが求められている。そうならば自分が誰であるのかを決めるのは自分がどこかのだれかであるあなたのことを決めるのに近づいていくのかもしれない。そうでなければ発展していく社会システムが自動的に決めるがままに自分が誰であるのかをフレキシブルに臨機応変に対応していくからこれはそれはそれで負荷がかかっていき危ういのかもしれない。子供みたいに気合を入れて疲れきるまで遊ぶのがいいのかもしれない。そこでは偶然の出会いもある。遊ぶ場所がインストールの場所で何かとの誰かとの出会いがプログラムの起動を誘発する。こういうことを文字で書くというのはなんだかなぁでありますが知識もスキルもないのでごめんなさい。

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