距離の問題は変化していく。メディアは知識中心からひとりひとりに向けた没入感を用意するようになった。判断は幻想のように変わっていくようだ。『オッペンハイマー』の評判を見て思ったこと。

 移動の手段の選択によって、「距離感」は随分と違うものになった。経験的な意味の世界はテクノロジーの発達で拡がる。移動の手段のようなものは、ある種のメディアのようになる。メディアのはたらきはなにを伝えるかという「通信」から、何を移動させるか何を運んでいけるかということへかわる。世界経済も軍事戦略もかわってしまう。インターネットは単なる通信ではなくなった。
 拡がるメディアの世界はモノや知識や情報や体験や時間の間隔や距離感というものを変えた。ひとりひとりがみなすべて違っている世界に入り込んでしまう。いったん、すべてが操作対象になってから、そこでの情報を検索することで、ようやく、自分の位置が感じられるわけだ。
 なんでも可能な何でもできると感じている個人となすすべもなくただそこにいるだけの個人もいる。それでおしまいということにはなぜかならないところに世界は期待しているという可能性を見ることができるようにもなっている。なんだか入り組んでくどい感じなそういう映画らしい。
 
 可視化されたとたんに意味が不連続に変わってしまうことが、今ではかなり頻繫に起こる。この可視化されるということが、対象化されるということとは微妙に異なり、そこへの没入感の深さによって意味への理解が違ってくる。興味があれば自分で調べるなりできるから、この映画は良い素材なのかもしれない。考えてみれば、こんなとんでもない技術的な発明が達成されてしまったということについては、その事情や始まりについて、そしてそれがどうなったか、につて知っておいた方がいいんじゃないではある。
 
 可視化されることが、知識になること、つまりうまく切り離して、観察や認識の対象になるという「客観的知識」のあり方から、対象とつながっているというような地続きな感覚へと変わる。
 同じ情報が、知識のようなものが、人によっては、真実であったり、フェイクであったりしてしまう。同じ事実に近づくための経路が一意的には決まらない。
 二人称的な関係が、初めに来るのかさいごに来るのかの違いがある。情報の非対称性ということがある。それはリソースの問題になったり、権力関係の問題になったり、変幻自在に変わり続ける。
 それには没入感が重要で、距離をどうするのか、したいのかが個人の問題になっていく。選択が事前の情報では決まらない。選択したら意味が一瞬に変わって以前の状態は復元不能になってしまう。
 
 例えば、ある物語を読むとする。人によって、読み方は様々で、はじめから読んでいく人もあれば、さいごから読む人もある。目次があれば、興味が魅かれるところを探して、あるいはいくつか批評があればそれを参考にして関心のあるキャラクターたち中心に読んでいく人もあるだろう。他人の評判を気にしながら読む人もいるだろう。誰かと一緒に読みたい人もいるかもしれない。おそらく、こういうことすべてが様々な経路として提示されて、人はどれを選択するかで意味が違っていくことになる。そのうえさらにこういうことそのものを内蔵した構成になっているような仕掛けのある物語もある。普通はこういうめんどくさいのは読まないだろうが、映画やものによってはテレビドラマですらこういうものがある。
 
 俯瞰して物事を見るのとフラットに近しい関係の人たちとコミュニケーションをとりながら行くというやり方もある。体験の共有ということが、難しくなっていて、フラジャイルなこともレジリエンスであることもともに要求されているようで、矛盾したことがなかなか思うようなところに着地しない。
 そういうことが個人的な資質として望まれているのだろうか。抽象的過ぎて何のことかわからなくなってきた。

 クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』の評判を見ていて最初に感じたのがこういうことだった。物事が進んでいく。中心になって進んでいくのと、なすすべもなく追いやられていくのが、さまざまに交差して物語が輪郭をとりはじめていくというようなものらしい。ひとつの物語になっていたものが実は分岐していく物語であってそれらが同時並行的にそれぞれ展開していく。
 
 それとは別に、アカデミー賞の受賞式の中継が受賞者やプレゼンターの振る舞いの変化を可視化して、トラブルになったことが、ニュースとしてはじめに報道されていたので、そのニュースで、いったい何事かと思った人も多かったらしい。二人称的な振る舞いが三人称的にいったんは客観化❓されてまた戻ってきて、当事者たちの振る舞いを当事者が説明するという同時並行的な動きが見られて面白かった。
 フラジャイルであることもレジリエントであることもともに求められているのだろう。矛盾しているようだけれど実はそうじゃないと思えるかどうか。誰でもみな「対象化」されていて、データを取られている、商品や情報がやってきて快適さや楽しさをお知らせしてきてそれで十分かもしれない。ただこのままずっとじゃなんかよくないと感じない?批評よりも少しはアクティビズムに近づいた方がいいのかも。こういうのは、ある種の没入感の効果ということだろうか。
 ノーランはまさかこんなこと考えるはずもないけれど地政学的距離感がいきなり変わってしまったこともあるかもしれない。彼の初めの意図は復元不能になって意味が変わりつつある気がしてきた。この映画を見れば没入感の先に世界が地続きであることが感じられてそれが近いのがわかるかも。

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