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木の葉どんぶりと条件反射

ジンジャーエールにしようか、コーラにしようか、それとも炭酸はやめてウーロン茶にしようか。
そういったことって考えません?

きつねうどんにしようか、カレーうどんにしようか、ちょっと外して木の葉どんぶりにしようか。考えません?

定食にしようか、単品で行くべきか、
もういいですね。

メニューもそうですが、私たちは一日に多くの選択をしていると言われています。その選択の結果が今の私たち自身を作っている。

きつねうどんにしようか、カレーうどんにしようか、というようなどうでもいい?いえいえ、何よりも大切な選択の瞬間もあれば、Aプランで行こうかBプランで行こうか、継続するか撤退するか、というように本当の意味で大切な選択の瞬間もあります。

いま、これを書いている私の気持ちは木の葉どんぶりに久しぶりに出会いたい気持ちが占めています。木の葉どんぶりとの思い出をありありと再生しようとしています。

皆さんにとりましてはどうでもいいことかもしれませんが、いまの私は木の葉どんぶりに傾倒している。いつの間にか木の葉どんぶりが私の胸中を占めています。おそらくこのまま私は店員さんを呼んで、木の葉どんぶりを注文するでしょう。木の葉どんぶり木の葉どんぶりと言っている内に相当に決意は固まってきました。何が起きても揺るがない気持ちで木の葉どんぶりに恋焦がれています。

私は木の葉どんぶりを選びました。木の葉どんぶりもおそらく私を選んでくれると思います。本日のベストオブ木の葉どんぶりを探すとなると私しかいない、と自負しています。

さて、この選択を私は誇っています。
うれしい気持ちです。誰かに伝えたい。伝えたいから書いています。

しかしこの選択は本当に私がしたのだろうか?

当然私がしたのです。メニューを見て、きつねうどんとカレーうどんを天秤にかけつつ、木の葉どんぶりを選ぶ。私は私が選んだと思っているけど本当にそうなのでしょうか?

人間の構造や働きから選択というものを考えた場合、私の選択というものは外野に位置していると考えた方が説明がつくことに気が付きます。

人間は脊髄反射と条件反射の組み合わせで自動的に動いているに過ぎない。ほとんどの人間はその意味で下等動物や自動人形と同じだ。染みついた反射行動を決して変えることはない。
つまり人間の選択は錯覚に過ぎない。
いくら頭を使って考えたと言い張っても、
考える前に結論は体が出ている。
頭は後からそれを追認するだけだ。

さらに続きます。

どんなに立派に理屈を飾っても、生というのはそれ自体ですでに奴隷なのだ。


錯覚に意味付けをし、色づけて、価値をつけるのは私だけではなく、生物としての人間は得意なようです。選択したと思っていてもそれさえも錯覚に過ぎない。日々日々の選択が今現状の私たちを形成しているのは間違いないのですが、選択自体をそれほど声高に誇る必要もなければ、悔いる必要もないのかもしれません。

もちろん大切な時に正しい選択をできなかった自分を悔いることもあるのかもしれませんが、選択や結果よりも、脊髄反射と条件反射がメインで選んでいるんだという構造式を知っていることは大事だなと思います。

木の葉どんぶりは会心だと思うんですけど。


読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。