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内見で父がバグった話

私が東京でひとり暮らしをすることについて、賛成してくれたのは父だけだった。

母は真っ向から反対はしなかったものの、私とふたりきりになる度に「友達おらんと寂しいやろ」「〇〇ちゃんも△△ちゃんもみんな地元残るって」という切り口で説得を試みてきた。
私は、「〇〇ちゃんも△△ちゃんもみんな持ってるって言ってもゲームボーイ買ってくれなかったくせに」と反論した。18歳の私は結構クレバーだったのだ。

祖父母は、「東京には狼がおる、危ないからアカン」の一点張りだった。
私は「岐阜にも熊おるやん」と反論した。たぶんそういう意味ではないと気付いたのは、割とあとになってからだった。18歳の私は、結構バカだったのだ。

すったもんだの末、不合格だったら地元に残るという条件付きで東京の大学をふたつ受験させて貰い、運良く合格した。青山にキャンパスがある共学の私大と、小平市にキャンパスがある女子大だった。

母と祖父母は、頼むからせめて女子大にしてくれと懇願した。18歳の私は青山と小平の区別がついていなかったので、東京ならなんでもいいやと思い女子大を選んだ。
そんな中、父だけは一貫して好きなほうにしろというスタンスだった。金のことも周りのことも気にするなと。「Your choiceや」が彼の口癖だった。

*

アパートを契約するために父とふたりで上京したのは、たぶん2月の終わり頃だったと思う。高校は自由登校期間で、父は恐らく有給休暇を取ってくれていたのだろう。1日で内見と契約を済ませて日帰りという弾丸スケジュールだった。

駅の近くにある不動産屋でいくつか間取り図を出してもらって説明を聞いたけれど、ここは正直あまり覚えていない。早起きして新幹線に乗り、その後初めて中央線でもみくちゃにされた私は、すでに疲れ果てていたのだ。父はまだ元気な様子で、不動産屋のお姉さんに熱心に質問を繰り返していた。 

内見に行ったアパートは、まだ工事中だった。
3月に完成予定の新築だそうで、足場やコンクリートがむき出しの状態を見て「本当に完成するのかな」と不安になったのを覚えている。
大学まで徒歩5分、JR国分寺駅まで自転車で15分。完成するかは不安だが、立地は良さそうだった。

工事中だったので、スニーカーのまま敷居をまたいだ。おじゃましますと小声で言ったら、行儀いいね、と不動産屋の営業さんに笑われたのが恥ずかしかった。


足を踏み入れたそこは――とてつもなく狭い、という印象だった。


部屋になるであろうコンクリートむき出しの空間は、大股3歩分くらいの横幅しかない。ここがキッチンになると案内された場所は学習机みたいなサイズに見えたし、ここがお風呂と案内された空間は家のトイレくらいの広さに感じられた。

べつに実家が特別広いわけではない。この部屋が極端に狭かったわけでもない。けれど、田舎の一軒家しか知らない当時の私にとっては、これが結構な衝撃だったのだ。

狭いですねと言うのも失礼な気がしたから、私は黙って父の後ろにぴったりくっついていた。
「6畳で、家賃はひと月6万円ですね」
と不動産屋さんが父に言った。
たっか、と思った。6万円は、18歳の私のお小遣いちょうど1年分だった。

何だかもうそれに打ちのめされてしまって、狭いし高いしやめようよ、と不動産屋さんの目を盗んで父に話しかけようとした瞬間。

「良いですねえ!」

父が、突然大声で言った。
私は、えっ、と思った。

バストイレ別で6万円は良い、広さも充分だ、新築で耐震も安心だ、と父は次々並べ立てた。そうでしょうそうでしょう、と不動産屋さんは乗っかった。

「しかもここ、女子学生専用ですから」
「なるほど!」
「お父さんも安心でしょう」
「そうですねえ!」

やけに大袈裟なリアクションだった。
私は、いやそうですねえじゃねえよ、と思った。

父はそんな私のことなど気にも留めていない様子で、狭い部屋の中を歩き回った。ゆっくりとした足取りだった。南向きの窓になるであろう穴から光が差し込んで、父の白髪まじりの髪が透けていた。

「想像してみやぁ」
父は振り返った。

「ええ部屋やと思わんか。なあ。ホラ、このへんにベッド置いて、ローテーブル真ん中にして」
明らかに普段より饒舌だった。
普段の父は、どちらかと言うと聞き上手なタイプだった。博識で、穏やかで、地味だけど、田舎のおっちゃんたちの中ではちょっとだけ洗練された感じの。

そんな父が、まるでなにかに取り憑かれたようにぺらぺら喋り続けているのは、もう普通に恐怖だった。

「ええなあ、お前、東京に住むんやぞ」
小平市は、そんなに東京っぽくなかった。

「東京で、新しい暮らしや。想像してみぃ」
18歳の私の精神は、四方をコンクリートに囲まれた空間で新しい暮らしを妄想できるほどタフではなかった。

「お前が選んだんや。このために勉強したんやもんなあ。家、出たがってたもんなあ」
いや、別にそんな。いや、そうなんだけど。

「Your choiceや。ええなあ、大学生かあ、未来があるなあ」
お父さんもうやめてよ。そう言いたくて、言えなかった。

お父さんがバグった、と思った。何かに取り憑かれて、彼にだけ部屋が完成した未来が見えているみたいだった。 私に話しかける言葉がいちいち訛っているのも恥ずかしくて、だから、私はポケットに手を突っ込んで黙っていた。

気持ちが通じたわけではないだろうけれど、父は納得したように何度か頷いて、それ以上は何も言わなかった。不動産屋さんは、部屋の隅でずっと同じ顔でニコニコしていた。

「どうされます、他も見て行かれますか」
不動産屋さんにそう言われても、父はしばらく黙って窓の外を見ていた。表情は分からない。

分からないけれど、泣いていたらどうしよう、と思った。
というか、なんとなく、泣いていそうな気がした。

いつも穏やかな父が泣いているところなんて見たことがなかった。だから18歳の私は焦って、

「あっ、もうここに決めます」

訛らないように気を付けながら、自らそう口にしていた。なんかいい感じだし、と適当に付け加えて。正直、こんな部屋全然何が良いかわからなかったけれど。

そうしてトントンと契約は進み、幅3歩で6万円の部屋は私の住処となった。

振り返った父は、特に泣いているようには見えなかった。
ほっとしたけれど、新幹線に乗って家に帰るまでのあいだ、ずっと父のテンションは高く、私のテンションは低かった。

*

結果、幅3歩で6万円の部屋はとてもいい部屋だった。
予定通り3月に完成した新居はぴかぴかで、生協のカタログで買ってもらった新生活応援家具セットは6畳の部屋にもぴったり収まった。

大学から徒歩5分だったから、割と頻繁に友達が泊まりに来ていたように思う。1年が経つ頃には、誰が買ってきたのか分からない麻雀セットと人生ゲームが置かれていた。何人かで雑魚寝をすると流石にちょっと狭かったけれど、寮よりはひとりの時間があって、だけど寂しくなかった。

*

あれからもう10年以上が経つ。4年間住んだあの部屋を離れて、今は横浜で、6万円よりちょっと高い部屋でひとり暮らしをしている。部屋の幅は4歩くらいになった。

この記事を書こうとして、あの頃を思い出して、そして内見で父がバグった日のことをふと思い出した。ずっと忘れていたのだ。


18歳だった私は、来年30歳になる。
すこし大人になった今、あの日を思い返してみると――やっぱりあの時、父は泣いていたんじゃないかと思うのだ。

父は、たぶん本当は、私に東京になんか行って欲しくなかったのだ。

父は決して反対しなかった。いつだって、Your choiceや、と微笑んでくれた。昔からお父さん子だったから、地元を出たいと最初に伝えたのも、そういえば父だった。
けれど父はきっと本当は寂しくて、あの日、あの狭いアパートを見て、唐突に寂しさの波に押し流されそうになってしまったんじゃないかと思う。

内見でバグった父が見ていたのは、東京に進学して、そのまま就職して、もう地元には帰ってこない私だったのかもしれない。ちょうど今のような。

*

そういえば、19歳や20歳の私は両親と頻繁に連絡を取るのはカッコ悪いと思っていたから、あの部屋で起きた出来事についてほとんど語ったことがない。

年末年始は実家に帰省する予定だ。
せっかくだし、あの部屋の思い出について少し話してみようかと思う。はじめての彼氏の話なんてしたら、父はまたバグってしまうんだろうか。

そしてできれば、部屋の話をした後に、ありがとうとか言ってみたい。寂しい思いをさせてたらごめんとも。そんなこと言っても、いまさら何だと笑われてしまうだろうけど。

決して親孝行な娘とは言えないけれど、あの部屋から始まった私の暮らしは、今も楽しく続いている。

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