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焦燥感から人は挫折する

人間の挫折において最も密接にあるのが焦燥感である。

努めに伴う成果が出ないとき、周りは先に進んでいるのに自分だけが取り残されているとき、首が回らなくなって対応できないとき


などに出くわすと人間は歩みを進めるのを躊躇い、その躊躇いから自分は何の才能もないのではないかと不安を発症させ、鬱に陥る。

進路でも、三年間みっちり準備したにもかかわらず志望校に落ちたり、希望する就職先に属せなかったり、結果が出ない期間が続くと足踏みを強制され、焦りに次ぐ焦りが沸き起こる。

つまり鬱になる要因にはこのプロセスが関係している。

コロナ禍で自殺者が多かったのは、今まで培ってきたものが、ウイルスによる縛りと社会ルールの変化によって無下にされ、自身の無力さを痛感したからであろう。

しかし、こと人生において、確実に定められているのは、「誕生」と「死」のみである。

つまり、「人生」と大袈裟に取り沙汰されているものには大して意味はなく、誕生した後の余生であり、死が決まるまでの猶予でしかない。

であるならば、その期間における価値は各々が勝手に査定すべきことであり、他者により優位づけられるものではない。

死ぬより無様に生き続ける方が辛いと思う人間の根底には、お笑いの賞レースのように、審査員ありきで自分の一挙手一投足を図っている傾向がある。

別に自分の生き方は誰に見せるものでもないし、「生まれて」「死ぬ」意外の確定事実以外は流動的にもかかわらず 、先人が作成した人類史改め「人類マニュアル」に沿って生きなければ失格という扇動がある。

それが良い効果をもたらす反面、それに縛られて気を病む毒性もあるわけで、何をなぞればいいかという教えは、所詮旧人類が編み出した攻略法でしかないのに、誰もがそれをなぞれば成功!と勝手に高を括る。

そもそも宇宙が銀河や惑星を発生させたことに意味はないし、地球に生物が誕生したのも、「ただ起こった」だけのことである。

この「ただ起こった」ことにわざわざ意味を見出そうとする悪癖が人類をがんじがらめにする。

自分はなぜ生まれたのか、なぜ生きているのか、それはただ、染色体が組成され、受胎し、誕生しただけのことであり、作為のあるものではない。

ただ結果として受精した胎児の意志が己であるだけで、それは自身が自身でならなければならない理由の裏付けではない。

親はキミとは別の意志を持った子を産んでも、「思ってたのと違う」とはならないはずだ。

つまり現象には作為がなく、ヒトがそこに思惑をこじつけているだけなのだ。

だから焦る。

だから絶望する。

なら、訪れる死を迎える間はただ自身が望む生き方を選択すればいいだけで、社会システムがそれを阻害するなら、システムそのものを阻めばいい。

本を読むのも映画を見るのも、教養を得て生き方の工夫を学ぶためであり、そこに描かれていることを1から10まで踏襲しなければならない理由はない。

と頭でわかっていても勝手に焦燥感は付き纏うと思うので、都合よく思考停止して生きるのが結果最も幸福な道なんだと思う。

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