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幸田露伴の随筆「潮待ち草15・16」

十五 酸性、亜爾加里性
 物には酸性の物があり、アルカリ性の物があり、中性の物がある。人にも酸性の人があり、アルカリ性の人があり、中性の人がある。或いは悲憤慷慨の言葉を発し、或いは猜忌嫉妬の心を持ち、或いは他人(ひと)を謗(そし)り他人を傷つけ、或いは事を妨(さまた)げ事を破り、甚だしくは平然と惨酷な事を行い、総べて自分の接するところの何物に対しても否定的に働きかけて、浸蝕と破壊と惨酷の作用を行う人は、これ即ち酸性の人である。酸性の人と永く親しむのは難しい。或いは直前のことに邁進して勇を振るい、或いは営為の計謀に労を積み、或いは独り勉め独り悩み、或いは他人を助け他人を愛し、甚だしくは愚昧頑陋な行動をとって敢えて悟らず、総べて自分の接するところの何物に対しても肯定的に応じて、生育と助長と培養の働きをする人、これ即ちアルカリ性の人である。アルカリ性の人は事を助長する傾向がある。酸性の人とアルカリ性の人の中間の人は中性の人である。酸性の人は厭うべきであるようだが、必ずしも厭うべきではない。酸性の人にも善人あり悪人ありで、その善者は義に依って悪を懲らし弊害を除き悪人を滅ぼす。アルカリ性の人は悦ぶべきであるようだが必ずしも悦ぶべきではない。アルカリ性の人にも善人あり悪人ありで、その悪者は為してはいけないことを為し、望んではいけないことを望む。中性の人にもまた善人あり悪人ありで、その善者が聖賢であり、その悪者がニセ道徳家である。凡庸な者は無節操で行いが正しくない。凡庸な者は酸性にもアルカリ性にも中性にもいる。源平の時代には、平家にアルカリ性の人が多く源氏に酸性の人が多かったようであるが、また江戸時代末期の水戸藩には酸性の善士が多く、薩摩藩にはアルカリ性の嘉士が多かったようだ。今の世では論客には酸性の人多く、事業家にはアルカリ性の人が多いようである。老子はアルカリ性、韓非子は酸性、墨翟はアルカリ性、揚朱は酸性、ただ揚朱は結晶している。管仲はアルカリ性、晏嬰は中性、屈原は酸性、商鞅は外面は強い酸性であるが中身は強いアルカリ性であり、終(つい)には自分の酸性とアルカリ性が合わさって、忽ち死んで仕舞う。張良は黄石公に遇ってその教えを受けてからは、自分の中の酸を捨てて純アルカリ性の人になる。范増は鴻門の会で自分の壜の栓が脱(ぬ)けなくて、終には自分で栓を焼き壊して空しく地に溢れ出た硫酸のようである。孔子は中性だが少しアルカリ気がある。孟子は中性でやや酸性に近い。人はそれぞれ天から享(う)けた性質がある。その生まれつきを失ってはいけない。ただ当(まさ)に功績を天地の間に立てて、天が我に与えたものを空しくしないよう心掛けるだけである。

注解
・韓非子:中国・戦国時代の法家。法治主義を説く。
・墨翟:中国・戦国時代の思想家。博愛主義を説く。
・揚朱:中国・戦国時代の思想家。快楽主義を説く。
・管仲:中国・春秋時代の斉の政治家。「史記、管・晏列伝」
・晏嬰:中国・春秋時代の斉の政治家。「史記、管・晏列伝」
・屈原:中国・戦国時代の楚の政治家。「史記、屈原列伝」
・商鞅: 中国・戦国時代の秦国の政治家。「史記、商君列伝」
・張良:中国・前漢創業の功臣。「史記、商君列伝」
・黄石公:中国・秦代の隠士。張良に兵書を与えた。
・范増:中国・秦末期の楚の参謀。
・孔子:中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。「史記・孔子世家」
・孟子:中国・戦国時代の儒学思想家。「史記、孟子列伝」

十六 生死
 密かに歴史を考えて見ると、造物主が人に命じて酸性の人には世の腐敗や陳腐を除く作用をさせ、又、アルカリ性の人には育成と新生の作用をさせ、その両者の作用を合わせて、連綿と継続し循環する窮まりない絶妙の世界を成り立たせているように思える。ただこれだけではなく、酸とアルカリとの二ツの作用は実にすべての事に亘って、造物主の巧妙な意向を示しているように思える。たとえば一切の動物の胃と腸である。胃の中は酸性である。腸の中はアルカリ性である。胃は外から入った物の毒を消し去る働きをする。そのために殺菌作用が無くてはならない。酸性である理由である。腸は食物の中から滋養分を吸収する働きをする。そのため培養の作用をする。アルカリ性である理由である。又たとえば全ての動物の生と死のようでもある。生の前は必ずアルカリの温和な作用に抱かれ、死の後は必ず強烈な酸の中に葬られる。既に生まれて未だ死なない間は、身体はアルカリと酸との二ツの作用の中に在る。二ツの作用が調和していれば健康で、支障が生じると病気になる。魚の卵もアルカリ性であり、鳥の卵もアルカリ性である。魚と成り鳥と成る源のものは、皆アルカリ性の中に懐かれるのではないだろうか。人が未だこの世に生まれる前は、その人と成る源のものはアルカリ性の液体の中に懐かれて活動する。それをこの世に生むに当たっては、母体はその胎児を養う為にアルカリ過多の状態さえ惹き起こすようになる。いわゆる悪阻(つわり)と云うものがこれである。俗説に「妊婦好んで青梅を食う」と云うものも、実はいささか酸性の物を摂って、自身の過剰なアルカリ性を中和しようとするためである。人畜鳥獣すべての動物は、このようにアルカリ性の中で生長して、出現して来る。そして死ぬと皆一様に、酸化作用によって解体されて無くなる。アルカリは生である。酸は死である。アルカリは春である。酸は秋である。青年はアルカリの気が多く、老人は酸の気が多い。恋愛はアルカリの香りである。アーメンと南無阿弥陀仏は酸の声である。アルカリと酸とによって全ての事象を観ると、全ての事象の殆んどが解釈できるようである。


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