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幸田露伴の随筆「潮待ち草43」

四十三 芸術と勉強
 勉強と云えば誰もがこれを善い事だと認め、不勉強と云えば誰もが直ちにこれを宜しくない事だと認める。勉強と云う一語もしくは不勉強と云う一語に対して、今の世の大概の人は皆このような感を抱いているようだ。
 勉強は努力と云うことである。努力が未だ善でないのであれば、努力はなお未だ悪でないようにすべきである。努力する動機が善である後に初めて努力は善のようになる。勉強は勉強の対象と動機が善であると確定した後に、初めて善であり是であるようになる。ソウ、そのようになるのである、そのようになるのである、ようなのである、未だ必ずしも達していないのである。その動機が善くてその対象が善くても、その結果の甚だ善くないことがある。世にはこのような事例が少なくないのである。勉強の動機と対象が善であり是であっても、勉強は未だ必ずしも善でも是でもないのである。
 或る画家がいた。一枚の好画を描いてこれを世に出そうとして、日々勉強して画を描く。画を描こうとする動機は善であり是である。日々画室の中に在って筆を運び彩りを施す。その対象は不善でも無く非でも無い。であるのに、この画家は甚だ拙くて、数年・十数年・ないし数十年の後にも、ただただ人に笑われるような悪画・醜画・ないし画とは認められないような画を描いて居るとしたならばどうであろう。画家は勉強して自ら徒労し苦しんでいるのである。画紙や画具は無益に消費されたのである。画を観る人は美観を得られず、観たくもない画を観せられたのである。社会はその人がもしジャガイモの栽培にでも従事していたなら、その間に得られたであろう百個千個万個万々個のジャガイモを損したのである。人が自ら作ることのできないような人の精力というものを、その人は勉強と云う美名のために空費させたのである。残念にも、その人が勉強さえしなければ、画紙や画具も無駄に消費されることが少なく、その人の精力もまた、いたずらに使い尽くされることも少しは少なかったことであったろう。コウなっては勉強の動機と対象が共に善であっても、勉強は必ずしも善でも是でも無いようである。
 しかしながらコレはこじつけ過ぎた論であって正当な論とは云えない。しかし、いわゆる勉強の是非は、直ちに勉強の動機と対象の是非によっては決められず、先ずは勉強が果してその動機に副うものであるかどうか、その対象に適うものであるかどうかが明らかになった後で、決められるものであることに間違いはない。則ち勉強さえすれば一枚の好画を世に出そうという動機の全部もしくは一部が達成されるハズ、また勉強さえすれば画技の巧拙はとにかくとして必ず上達するハズ、と云うことが明らかでない以上は、勉強の善悪や是非を考える上でその動機や対象の善悪是非を比べるようなことは、必要のないことである。
 勉強は果たしてその勉強の動機に副い得るものか。則ち勉強さえすれば、画家は果たして、一枚の好画を作ろうと云う動機に背かない結果を得られるものか。勉強は果たして、その勉強の対象と良い関係を持てるものか。則ち勉強さえすれば、画家は果たして、勉強に比例して画技が上達できるものか。思うにパンを焼いたり屋根を葺いたりジャガイモを作るようなことは、勉強によってその効果が得られよう。しかし、思うに芸術の事は、勉強によって之をどうこうすることは出来ないようである。社会一般の事は或いは勉強によってどうにもなろうが、芸術の事は実に勉強とは関係しないようである。
 勉強とは勉めて強いるものである。心は既にこれを嫌っているが手は猶も之を捨てない、これが勉強である。足は既に疲れているが意(おもい)はしきりに路を求める、これが勉強である。叶わないことでもこれを達成しようとし、及ばないことでもこれを為そうと励み、人の心からの本来の要求を斥けて、或る目的に向けて意思と知識とに猛威を振るわさせる、これも勉強である。拙い画家が拙いことを自覚しつつ敢然と絵筆をとる、これが勉強である。巧みな画家が夜間での彩色の困難を知りつつも必要に迫られて恐る恐る灯下に色を点じる、これが勉強である。詩人が何等感興を感じることなく文字を配列する、これ則ち勉強である。音楽家が一ツの感じも無く徒(いたずら)に古典のアチコチを繫ぎ合わせて曲を作る、これ則ち勉強である。衣食のために勉強する者があり、酒食のために勉強する者があり、名誉のために勉強する者があり、又、その動機に高下優劣があるとは云えども、要するに勉強する者は、皆自ら苦しみ自ら堪えて、僅かにその勉強と云う美しい(?)旗の下に、額の汗をぬぐい不安な呼吸をしているのである。他の事は知らないが、芸術においてソモソモ勉強で何を得られるというのか。勉強はパンを焼く技の道ではないか、屋根を葺き列(なら)べる技の道ではないか、ジャガイモを収穫する技の道ではないか。
 インドの古伝によれば、技芸天女は摩醯修羅天王(まけいしゅらてんおう)が大自在天上において優遊自適していた時に、忽然としてその頭髪の生え際から化生したと云う。法悦という言葉があり、禅悦という言葉がある。今これにならって画家が画を描く時に感じる純粋な芸術上の悦びを画悦と云い、詩人が詩を作る時の純粋な芸術上の悦びを詩悦と呼ぶ。画は必ず画悦の中から来るべきで、勉強の中からは来るべきではない。詩は必ず詩悦の中に求めるべきで、勉強の中に求めるべきではない。一切の芸術はすべてコウでなくてはならない。技芸天女が悦びの時に現われ出て勉強の時に現われなかった古伝は、甚だ荒唐無稽ではあるが、しかしその意味するところは実に味わう価値がある。
 芸術界における勉強の価値は甚だ疑わしい。私は勉強家に味方しない、賛成しない。一日もパンがないと困るのであれば勉強家がいなくては困るが、百年千年ないし万々年において悪詩・悪画・悪彫刻等が無くてよいのであれば、芸術の世界には勉強家は必要ないようである。芸術家の諸君よ勉強するな、勉強は不必要である。ただ芸術上の悦びの中(うち)から自然にソレを作り出して来るべきである。芸術家が皆勉強家でなく皆争って不勉強家になって不平を訴える者は芸術家の細君だけであろう。芸術家が勉強に依らなければ、必ず社会は少しく非美術的な余計物に煩わされることを免れ、不勉強家の恩恵を少なからず受けることになろう。アア、不勉強に限る、不勉強に限る。

注解
・技芸天女:摩醯修羅天王の頭上から生まれた天女、容姿端麗で技芸に優れる。芸術の神。
・大自在天:摩醯修羅(摩醯首羅)のこと、ヒンドゥー教のシバ神の異名。万物創造と破壊をつかさどる最高神。
・大自在天上:大自在天の頭上。(大自在天の頭の中)
・化生:生まれ変わる。
以上から文意を解釈すると、「技芸天女(芸術の神)は大自在天(摩醯修羅)が大自在天上において優遊自適していた時(まどろんでいた時)に頭の生え際(毛髪)から生れ出た」と云うことか?。
・法悦:仏の道を聞くことで得られる悦び。
・禅悦:禅の修行によって得られる悦び。


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