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幸田露伴の随筆「潮待ち草29」

二十九 劇
 今の演劇の世界を語ろう。今は興行の時代である。脚本の時代でも演技の時代でもない、興行の時代である。作者の時代でも俳優の時代でもない、興行者の時代である。江戸趣味はすでにその力を失って、舞台を主導するに足りない、観客を魅了するに足りない。そして之に代って舞台を主導して観客を魅了するに足りる東京趣味は、今なお未だ形成されていない。舞台上の趣味もそれぞれ様々なので、観客の趣味もそれぞれ様々であり混沌未分で雑多な状態と云うのが現在である。この状態にあって喝采を博す・博さないは、必ずしも脚本の良否に因るのでも無く、演技の巧拙に因るのでも無く、ただただ興行の運不運に因るのであって、必ずしも作者の甲乙に因るのでも無く、俳優の新旧に因るのでも無く、興行者の才不才に因るのである。江戸趣味の最後尾においては興行者に勝れた者があり、作者に勝れた者があり、俳優に勝れた者があった。今まさに形成されようとする東京趣味の先頭に、誰がマズ興行者の勝れた者となり、作者の勝れた者となり、俳優の勝れた者となるべきであるか。俳優と作者はしばらく措いて論じないが、今は興行者に才があれば、拙い俳優や劣った作者を用いても、容易に観客を劇場に招(よ)べるのである。
 今の観客は喩えて云うならば、雪の野原でどこかに食べ物は無いかと漁り廻る獣のようなものである。どこにも食べ物が見つからない時、その足の向く方や眼を遣る方に、食べ物や又はそれらしい物を見つければ、忽ち行ってこれを食うだろう。飢えていない獣は四方(あたり)を見廻して、自分が旨いと思う物を見つけて初めて食い、旨いと思わない物は見向きもしない。しかし飢えた獣は心せわしくアチラコチラと駈け廻って、食べ物や又食べ物ではなくてもそれらしい物を見つけると、忽ち駆けつけてこれを食う。それなので飢えた獣を招くのは簡単で、ただその足の向く方や眼を遣る方を知りさえすれば、そこに物を置けばそれが叶うが、しかし飢えて余裕がないので、それが足の向く方や眼を遣る方でなければ幾ら香りのよい旨い物を置いても、気づかずに関係のない方向に行ってしまうだろう。今の演劇界は雪の野原である、老劇通はかつて食べた物の旨い味にあこがれ飢えている老いた獣である。若い男女は物を与えれば直ぐ食おうとするほど飢えている若い獣である。老いた者も若い者も心せわしく駈け廻ってその食べ物を求めているのである。それなので、その足の向く方や眼を遣る方を知って、そこに物を置きさえすれば直ちに招(よ)ぶことができて、その実質の良否が論じられるのは飢えが癒された後のことであろう。であれば、今の時は獣がその時々に向ける足の方向や眼の方向を知ることが出来た者が勝ちを得るのである。即ち興行者の才ある者が演劇界の雄と称されるのである。俳優や作者の時代ではなく、ただただ興行者の黄金時代である。この功績が収めやすい今の時において大成功できないような興行者は、実に興行者としての才能が無い者と云うべきである。俳優や作者を今の時において成功しないからといって酷評してはいけない。

注解
・老劇通:演劇の世界に永く親しんで来た老人。


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